2024年5月


群馬県高崎市岩鼻町



「旧陸軍岩鼻火薬製造所跡」に連れてってもらいました※青字は加工、厳密には位置が異なる可能性あり※




跡地には、中央の「群馬の森」という公園のほか、隣接する「工場」や「研究所」のあたりも含まれるのですが、それぞれの敷地内に属すために、近づけない遺構もあります




駐車場から東へ歩くと、右手に土塁が現れます火薬工室で万が一爆発事故が起こった場合、周囲に被害を及ぼさないために構築されたもの



附属するコンクリート製のトンネル工室との通路?



反対側から光が入って明るい





開けた所に、柱が1本だけ立ってます



損傷激しく、これといった関連情報も少なく詳細不明ですが、地面に長方形のコンクリートが残っているため、何らかの建物の、角の柱ではないか?と推測しています



何らかの建物があったのは、地面の違いからして、ほぼ間違いないと思われます潰れたボルト?





我が国 ダイナマイト発祥の地陸軍岩鼻火薬製造所跡



ここには分かりやすい看板がありました



石碑の裏を書き起こしたので、興味のある方はお読みください(手入力のため誤字脱字あるかも)建碑記

ここ、旧岩鼻火薬製造所の歴史は明治12年にはじまる

富国強兵、産業の振興をはかり、近代国家の確立をめざした明治政府は、火薬類の軍需民需の急増に応えるため、烏川の沿岸で、当時としては唯一の動力源である水車の利用に適し水利と水運に恵まれ、東京にも近いこの地に建設を決定した

明治13年 建設に着手

明治15年 竣工、黒色火薬の製造を開始、施設の増設、技術の革新をはかった

明治38年 ダイナマイトの製造を開始して、わが国産業爆薬製造の発祥地となった

昭和9年 ニトログリセリン入り無煙火薬の製造を始めた

昭和20年 第二次世界大戦の終結による閉鎖にいたるまで64年間ここで生産された火薬類は、軍需のほか民間需要にも応へ、わが国近代産業史に残した足跡は大きい

群馬県が明治百年の記念事業として、この地に「群馬の森」を開設し、新しい時代の役割を担う地を計画すると聞き、この地にゆかりあるもの相計り、由来を述べて建碑の記とした

旧岩鼻火薬製造所 従業員 遺族有志一同 関係者



これも遺構なのかな?



射場跡 (昭和10年完成)全景、のように撮影しましたが、思ったより長く、実はこの画像に入りきってません


この中で試し射ちしたり、弾道を測ったりしたのでしょうか?横風の影響は少なそうですね



ゲートとフェンスで近づくことは出来ません


これみたいに「片方が広がった筒」が何度か連続して置かれていて、まとめて見ると巨大土管という感じです




過去に、このすき間付近から内部に入った人も居るようですが、私たちが訪問した時点では、手前にゲートが設けられていたため、行きませんでした




射場跡のすぐ近くレンガ造りの何か



これ以上近づけませんピザ窯みたいな見た目



何を撮影してるか分かりづらいですが、フェンス沿いに建物が並んでいるので行きます


フェンスのむこうは、日本化薬の敷地だそう



これは、壁だけです火薬関連の建物は、爆風が上に抜けるよう「壁は分厚く、屋根は薄く」が鉄則ですが、それがよく分かる遺構です



接近厚さ30cmはありそう



土塁の下に通路


建物、わりとしっかり残ってます


換気扇?剣道の面みたい


換気扇ではなく、照明でしたね


建物の屋根は、2区画につき1回、上が飛び出てるようです



内部の荒れよう

これは廃墟感はあるけど、天井から明かりが射し込んで、意外にも暗くはないです



工室と外部とを繋ぐ通路でしょうね


土塁表面の石の並びが整然としています





内部が暗い建物もあります




建物群 終盤
建物とは反対側に何かの遺構がありました



駐車場の方に戻って来ました「群馬の森」と「日本化薬」の間には川が流れていて、その両脇には、判読出来ない種類の異なる標石が、数えきれないほど立っていました



あの大木の横にある橋も古そうですね
(全国橋梁マップ記載無し)




さて、公園を出て、周りの遺構を探します
フェンスの間から撮影


日本化薬の敷地内に残る「共栄門」説明書きがあるようですが、入れないのが残念ですね



日本化薬西側窓枠、格子が古い


当時の古い塀塀の向こう側に、古い建物がいくつも残っています



危「險」



三角スペースに残る、門と塀




日本化薬南側を、ずーっと東へ進むと
南門


文字は見当たりません


実は帰宅後に気づいた、見落としてた遺構もあるのですが、事前に予定していたスポットには全て行けたので、これで完了とします


(参考:高崎新聞)