面白いって言ってもFUNNY(滑稽)では無く、人間の奥行きや深みの部分が大いに在る人を面白いって感じます。
人間的魅力ってものでしょうね。
自分の経験則の話で恐縮ですが、
妙なところで大人振ってるつもりで他人を相手にしなかったことが在ります。
そして一切誰にも謝罪をせず、自分が此の世で一番正常で、
行動は完璧なので反省することなど一つも無いなんて嘯いていました。
トラブルに成りそうなのを回避するために怒鳴り付けたり威嚇したり、
恐怖で縛れば良いと、楽で駄目な方に転がり落ちていました。
何の為に身体を鍛えているかは攻撃を受けた時に相手が二度と向かって来ない様に叩き潰す為
(負けない為と云う理由では無いのが駄目です)。
産まれっ放しで自分が此の世で何をするかなんて考えず、
自分独りで何でも出来ると傲慢な考えでした。
何の為に生を受け、生き続けているのか。何処へ向かうのか。
やりたいことや自分が嬉しく充実感を覚えるのはどんなことか。
そんなことを或る日考える様になって、対人でのマウンティングを止めて、
お互いが楽しく、生きるステージを高く上げられたらと云う方にシフトしました。
正直、ナチュラルに出来てることも有れば、無理して煙が噴き出してる様なことも有ります。
その辺は自分が今迄楽な方に逃げて来た分の負担が来てるので、
苦労は有っても背負わなくてはと思っています。
それでも三つ子の魂百までとはよく言ったもので、
人との諍いを限界まで避けてても、どうしても”こと”を構えることに直面します。
そうなるともう譲り様が無くなってしまい、
完全に此方の存在を相手は潰そうとしてるとしか考えられなくなります。
なので私は仲直りと云うものをしたことが在りません。
必要無いと思っています。
だから必ず立ち止まって、自分の今迄の経験則や考え方をフル動員して、行いや言動を省みます。
余裕の有る人が格好良く映るのは、自分の知識や経験を基にした、
器の大きさや思慮の深さを感じるからだと考えています。
余裕を以て受け止めて、付き合う必要を感じなければ殴らずとも離れれば良いだけなのだと。
勿論、その先が在るならばブン殴る必要も在ると思います。
そこ迄リスクを背負えて思いを籠めている相手ならではですが。
訴えられたら普通に捕まりますからね。
それがかっこいい姿に今の私には視得ません(笑)
世の中で言う『平和』は、別に皆が笑顔や喜びを感じている状態では無く、
『戦争状態では無い=平和』らしいです。
殺し合っていないので在れば平和なのだと。
それだったら「戦後」なんて言葉を使うのは大きな間違いだと思います。
そしてそんなものを平和だって言う価値観に抗っています。
今の私は後ろ向きにくよくよしてばかりですが、
やってきてしまったことはもう取り返しが着かないので、氣を配り、精進したいとしています。
意見を言うことはとても大切ですし、相手に対してリスペクトが無ければ出来ないことだと思います。
視ていると「意見する」と「唾を吐く」が同じになっちゃってると感じる人が少なくありませんが(笑)
吐いた唾は飲めない。
吐いた唾を土下座で舐める様な真似だけは人間として格好が悪いと思うのでしたくありません。
したいことだけをしたいと思います。
昨日(2017年8月30日)を以て、私の祖母が100歳を迎えることが出来ました。
1917年。皇紀2577年。大正6年の生まれ。
第一次世界大戦が1914年(大正3年)から1918年(大正7年)に掛けての戦争。
二度の世界戦争を切り抜け、関東大震災も経験している。
江戸っ子故に東京大空襲のど真ん中でも在った。
祖父は戦争で亡くなっている。
シングルマザーなんて言葉が無い時代に、母を女手一つで育てた。
ああ、なんかもう色んなことを思い出してしまって書けないぞ。
おばあちゃん、百歳到達おめでとう御座います。
あなたは私の誇りです。
これからも引き続きずっとあなたの孫で居させて下さい。