河合塾の中学受験事業の撤退によって、本来なら自らが作った日能研東海に、遺産を引き継ぐ事を目論んだのがであろう。しかし、その目論見は完全に外れた。その要因の一つが、河合塾の大きな財産であるこの地区の入試に精通している講師に対してほとんど門戸を閉じてしまった為に、本来なら河合塾に入ったであろう、生徒も河合塾に行かなかった。予習型の河合塾に対して、復習型の日能研と学習モデルが真逆である事。最低週1回の通室でもやっていける河合塾に対して、6年生では週4日拘束される日能研 とそれだけでも大きな壁があるのに、ましてや先生も居ないとなると日能研に行こうとするは無くなって当然である。(各教科数名の講師は日能研に移籍してはいる)

こうして 発生した塾難民たちの受け皿となったのが名進研であった。

日能研はそれでも2年目の受験から、名進研の合格者数には及ばないものの、明倫ゼミナール、名古屋セミナ−、京進のそれを遥かに凌駕し、それ以降名進研に対する追撃を始める。

その結果、これらの塾の生徒数が減ったのであろう。明倫ゼミナールは中央出版に売却され、中学受験授業からほぼ撤退、名古屋セミナーは浜学園に買い取られた。