空と風と川の流れを.

空と風と川の流れを.

 空と風と川の流れを求め,素の自分を表現できたら良いなと.

 固有種の生息や存在を脅かすのでイメージが極めて悪いの『外来種』。

 海を隔てて運輸や貿易、観光などで人々の往来を通じて外来の生物が国内に生息してしまう生物のことを『外来種』と呼ぶが、固有種の生息や存在を脅かし、生態系への影響を与える。それだけではなく、農作物へのダメージがあることもある。

 

 日本では、アメリカザリガニ、シロツメクサ、セイヨウタンポポなどがそうである。釣り人にとってはブラックバスも有名かつ悪名高い外来種である。ニジマス、ブラウントラウトも元来日本の固有種であるはずもなく明治期に移植された外来種である。一般的に外来種は忌み嫌われるものである。

 

 ある日、毛鉤の種類をネットで調べてみると、"Japanese Beetle"という名前が目についた。Japanese Beetle、つまりカナブンである。 カナブンは米国では有害外来種 (Invasive Species)に分類され、1916年に貿易を通じて持ち込まれ、農作物の被害も出ていているそうで、農業における害虫駆除の対象であるそうだ。

 

 日本国内で外来種で不平、文句を言う人は多いが、日本から外国に出ていって迷惑をかけている可能性がある外来種についてはどれだけ認識があるだろうか、と、ふと疑問に思えた。

 

  でも、このカナブンを模した毛鉤、米国の川での夏場の釣りではよく釣れるんだよ。

 普段、かなり変則的なスケジュールで仕事をしている。というのも、一人で多くの仕事を抱えていて(押し付けられているともいう)、月曜日は複数のミーティング、火曜日から金曜日は若手や学生のプロジェクトの仕事、他の部署との共同業務に忙殺され、自分個人の仕事ができる時間はほとんど取れない。仕方がないので自分の仕事は週末にすることになる。それにも関わらず、上司は自分の仕事を急かしてプレッシャーをかけてくる。仕事自体は楽しいといえば楽しいのだが、気がつけば全く休みを取らない状態が数ヶ月続き、心身ともに疲弊してくる。このような状態であるので、釣りのために休暇を取ると申し出ても却下されたことも苦言を言われたこともない。少なくとも、ストレスを溜まりすぎる前に、精神的、体力的に疲弊しきる前に強引にも休みをとって釣りに行くようにしている。

 そもそも、この仕事を選んだのもある程度の時間的自由を確保できるためだ。

 フライフィッシングと家族愛を描いた映画『リバーランズスルーイット』の劇中の一節に、ブラッドピットが演じた主人公の弟役ポールは、『釣りの時間を妨げないような仕事を選んでいた』という下りがあり、ポールは新聞記者をしていたのだが、実際に新聞記者の業務が釣りのために時間的自由がきくのかわからないが、そのような設定だった。自分自身釣りを妨げない仕事を第一に選んできた。

 また、どこかの雑誌で、『釣りは平日にするもんだ』という文をみたことがあった。通常の会社つとめの人からすると、かなりむかつく内容かもしれない。釣り人が多くいる週末や祝日より、平日に釣りができたほうが当然いいだろうし、他人が忙しく働いている間に川で釣りをするという、他人と一線を画す優越感と背徳感を感じる、かもしれない。

 

 米国には5月のメモリアルデー、7月4日の独立記念日、そして11月のサンクスギビングデー、そして12月のクリスマスデーと年い四回ほど大きな祝日がある。特に7月4日の独立記念日にはその前か後かの週末も含めてどこかに出かける。キャンプ場や海やレジャー施設などは人で混み合う。それならばと祝日前に釣りに行ってやろうということで6月30日から独立記念日の前日、7月3日までの四日間、無理やり休暇を取って釣り&キャンプに出かけた。行き先はいつものノースカロライナ州チェロキーの川。

 

 それにしても暑かった。現地についてみると日中の気温は30℃を超えていた。しかも川は渇水。あまり良い状況ではなかった。

 1日目は5時間もの超時間の運転で疲れているのでテントの設営と晩飯だけ。釣りは二日目の朝から。

 

 しかし、夜更けから朝にかけてはかなり気温が下がった。明け方には寒さで何度も目が覚めた。寝袋から出られたのは8時になってから。すぐにコーヒーを淹れる。

 川に出たときにはもう時刻は10時になっていた。水は渇水。川底には緑のバイカモが茂っている。そのバイカモの間に魚が潜んでいるかもしれないので丁寧に流していく。それでもなかなか釣れない。魚が出てきてくれない。

 なんどもなんども毛鉤を流していく。釣れるかどうかもわからない。それでも流す。期待値はどんどん下がっていく。

 

 しかし、突然空気が変わる。うまく文章で表現することができないが、突然空気の匂いと明るさと、川と風景の色合いが変わるのだ。そして、理由もなく魚が釣れる確信のようなものが出てくるのだ。この感覚はなんだろ?

 その後すぐに、大きくはないものの30㎝ぐらいのニジマスが釣れた。この確信には外れはなく、この感覚は長年釣りをやってきたからこそのものなのか。もし、ほかの人が近くにいた場合、この感覚を共有、共感できるのだろうか。

 

 それからしばらくして、バイカモと岩の間に縦に潜んでいたであろうニジマスが毛鉤を加えた。加えたままじっとして動かない。さらに毛鉤を口にくわえたまま悠然と泳いでいる。そこそこ大きい魚なのだろうとそこでわかる。

 しかし、使っているティペットは5x。細すぎるかもしれない。そういうときは竿でしっかりとテンションを吸収しながらやりとりする。そんなもんだ。

 しばらくすると魚もようやく気付いたのか、あちこちに逃げ回る。リールからラインを引き出していく。リールが唸る。

 釣り糸へのテンションがかかりすぎないようにこちらから魚に近づいていく。

 どれぐらいやりとりしただろうか。時計をみるとおよそ20分、ようやくネットに魚が収まった。

 久しぶりにいい魚が釣れた。サイズもおよそ60㎝ほど。雌だ。上あごに毛鉤ががっちりと食い込んでいる。しっかり食ったんだな。

 写真を撮って、川に戻した。

 この一尾で十分満足してしまった。まだ残り二日あるのに。時刻は1時を少し過ぎたところ。

 もういいや、と思いキャンプ地に戻って昼飯をとることにした。

 その日はそのまま昼寝をしてキャンプ地でぼーっとしていた。たまにこんな時間もいいだろう。

 

 久しぶりに動画も録った。編集してYouTubeに載せた。4月、5月の釣りでは一尾も釣れなかったので、YouTube用の動画を作ることができなかった。

 

 
 年齢とともにガツガツ釣りをすることをしなくなった。釣りに出かけても、気分次第で釣りをし、気分次第で釣りをやめてのんびりする。キャンプ地でコーヒーを淹れてなにも考えずに過ごし、好きなものを料理して食す。
 今回の釣りで改めて、俺ってほんま釣り好きだよな。釣りほどおもろいもんないよなぁって感じた。
 

 

 

 

 

 

 故坂本龍一氏がどこかで話した言葉に、

 『今、世界的に活躍している人のほとんどが、なりたくてその職業に就いているわけではない』

 というような旨のことを言っていたのを聞いたことがある。

 確かにそうかもしれない。

 中島敦著の『山月記』の一節に

『理由も分からずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生き物のさだめだ。』

 というものもある。


 ただ、自分自身としてはまずまず好きなことを仕事に出来ているし食うに困ってるわけではないので幸運だと思う。なによりも、生い立ちや学歴にしてもそれほど能力、実力があるわけではないにも関わらず、競争が激しい分野で仕事を失うことなく生き残れてきたこと、これは幸運以外なにものでもない。

 しかし、時折自分がなぜここにいるのかわからなくなるときがある。

 本当にやりたいこととは異なる。それでも、器用貧乏なのか仕事と割り切っているし、それなりに楽しめて、時には興奮も歓喜もあってなだかんだ言いながら仕事を続けられている。

 これも何かの運命というか、神様のお導きなのだろう。受け入れるしかないのだ。

 

  10年前の今日(5月1日)、現在の職場に移ってきた。同じ職場に10年という長きに渡って働くなんて全く予想していたわけでもなく、米国に14年もいるとは思ってもいなかった。

 

  だが、そろそろ次のステージに進もうか。