今週の研究記事です。
研究記事25
「私は……自ら自分の羊を捜[す]」
いろんなブロガーさんたちが記事にしておられることと思いますが、わたしの注目した点はここです。
8節からの副見出し
エホバは自分の羊を愛している
こんな挿絵があります。
いかにも、羊を大切に思いやる羊飼いの絵って感じです。
文章も、イエスが99匹の羊を残して、失われた1匹を探す羊飼いの例えをあげています。
でも、ですよ。
イスラエルの宗教って、羊を犠牲にささげますよね?焼燔の捧げものとか。
信仰の鑑とされているアベルなんか、「脂がのった最良の仔羊」を犠牲にしたんじゃなかったですか?
て、ことはですよ。
この助け出された羊も、いずれは犠牲に殺される運命かもしれませんよ?
明日かも知れない。
じゃあ、この挿絵にキャプション入れましょうか。
羊飼い:「テメー。どこ行きやがった。明日は犠牲に捧げることになってんだよ。なにトンズラしてやがんだ。手間かけさせるんじゃねえよ。」
子羊:「あー・・・見つかっちゃうよ~・・・まだ死にたくないよお~・・・」
まあ、すべての羊が犠牲にされたわけではないでしょうが、100匹の羊のなかで、いずれは誰かが「犠牲」に選ばれることになるのは必然です。
だって、そういう律法だったわけで。神の掟は絶対です。
ですから、動物の生贄を必要とする宗教と、イエスの失われた羊のたとえ話は、そもそも矛盾をはらんでいるわけで、この辺がJWの教理とよく似ていると言わざるを得ません。
失われた羊(不活発の成員)を探して群れ(会衆の集会)に連れ戻す、その目的はそいつを犠牲にする(無償で宣教させ、寄付させる)のが目的だってことです。
全員が犠牲にならないとしても、必ず誰かが犠牲になる運命。そういう宗教です。
キリスト教ではキリストが人類の為に犠牲になったことになっています。
それで全員救われていて、それ以上の犠牲は必要ないはずです。
でもJWではそれだけでは済ませません。
救われたければ、野外奉仕に出かけてワッチタワーの会員を増やし、集会に出席して営業方法を習得し、一致団結して結束を固めようと努力する姿を見せなければなりません。
長老という「羊飼い」(実際には挿絵のように犠牲者を追いつめる組織の手先)がいつも目を光らせ、自由を求めて逃げようとする「子羊」(組織の実態を知って、覚醒した成員)をトっ捕まえ、排斥をちらつかせて無理矢理言うことをきかせます。
挿絵の子羊、発見されなければこのまま(JWの言うところの「霊的に」)死にますが、見つかっても(組織の奴隷として人生をささげ)犠牲になって(普通の生活という当たり前の人生が)死ぬことになります。
どっちが幸せなんでしょうか。