あだフレ広場

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合唱の魅力を語り合いましょう!

 年の瀬になり一年を振り返ってみると、この一年で一番苦労したのは、合唱連盟の書記の仕事でした。実は、現役時代も会議を最も苦手にしていました。会議中は、早く終わらないかと、そればかり思っていました。会議の意義を侮り、会議など無くなればいいのにとさえ願っていました。ですから、会議中人の話は聞かないし、ましてメモなど取ったことがありませんでした。しかし、今考えれば、社会人としてあるまじき行為でした。それを含めて仕事なのですから、これでは給料分働いていません。もっとも、それ以外のところでは、人並み以上の仕事をしているという自負はありましたが・・・。ところが、人生とは因果なものです。今になってそのツケが回ってきました。手抜きした過去に復讐されたようなものです。合唱連盟の会議を聞こうとしても、内容が耳に入ってきません。聞いている内に、だんだん意識が遠のきます。そもそも、私は耳で聞く習慣がついていないのです。音声言語を軽視し文字で確認しければ、納得できません。テレビさえも字幕付きで見ています。しかも、年を取り難聴になって、聞き取る能力も衰えてきています。したがって、こんな私にとって書記ほど向いていない仕事もありません。辛いのも当然です。しかし、今はこれでよかったと思っています。むしろ感謝さえしています。と言うのは、人は嫌なことから逃げ、少しでも楽をしようとしがちで、それに伴い脳が衰え、認知症のリスクも上がるからです。ですから、これは天が私に与えてくれた機会だと捉えるようになりました。そう思ってみれば、合唱を始めて頭の働きがよくなったのと同様に、書記をすることで以前より脳が活性化したような気がします。あと一年、頑張ります。(Y)

 オノマトペというカタカナ語があります。「ピーチクパーチク」「げらげら」「にゃんにゃん」「よぼよぼ」といった言葉を言います。オノマトペには、実際の音に似せた語もあれば、受ける感じを音で表したものもあります。「あの人って、ケラケラ笑うでしょう。でも、そうかと思うと、急にツンケンするよね。」という風に。実は、オノマトペ無くしては日本語が成り立ちません。オノマトペは、日本語のおまけではありません。むしろ、日本語の根幹を支えています。たとえば、英語の「歩く」は一応walkですが、ぶらぶら歩くはstoroll、のしのし歩くはstut、とぼとぼ歩くはtruge、よちよち歩くはtoddleと別語になります。ところが、日本語なら「歩く」とオノマトペを使えばいいのです。どちらがいいのかは、一概に言えませんが、日本語の方がシンプルで簡単ですよね。沢山の単語を覚えなくてもいいし。しかも、音楽的だし、オリジナルの言葉もつくれて独創的です。なのに、日本人は西洋人コンプレックスのためか、オノマトペを使うのをためらいます。だから、公式の文書にはまず出てきません。新聞にしても出てくるとすればコラムぐらいです。でも、これってどうかな?もっと日本語に胸を張ってどんどん使うべきです。ちなみに、オノマトペはもとはフランス語です。日本では擬態語・擬音語・擬声語の意味で使われるようになったのは、漢字表記が硬すぎるからでしょう。カタカナの時代になってきています。そもそも、漢字に寄りかかるのは考えものです。漢字が正しい意味を表しているとは限りません。むしろ漢字から意味を推し量る方が危険なことさえあります。たとえば、「概念」からその意味がわかりますか?コンセプトというカタカナ語の方がましです。でも、もしオノマトペというカタカナ語を嫌うなら、〈いきいき語〉と言うのはどうでしょう。表記は〈活き活き語〉でもいい。「いきいき」自体、〈いきいき語〉です。そういうわけで、私は今日も、こうしてブログを〈だらだら〉書いては、歌を〈そこそこ〉練習しながら〈ゆるゆる〉と生きています。(Y)

 少し元気になりました。しかし、体調の悪化に伴い、一時よくなった胃痛も再発。やれやれ。そんな時『人生の扉』の歌詞が頭の中で繰り返されます。私はこれからいくつその扉を開けるのかなと。それにしても、『人生の扉』も英語の意味は簡単でも発音はやっかいですね。英語やドイツ語やフランス語は子音が続きますよね。これが困ります。たとえば、『愛の賛歌』のフランス語のスペルは、Hymne à l’amourです。Hymnと子音が4つも続きます。おまけにフランス語は語頭にラ行音が来ません。だから、l’amourの「l」は発音しません。これじゃ、歌う気になれません。その点イタリア語ならまだましです。基本、子音1つ母音1つですから。イタリアの曲が人気があるのもうなずけます。日本語はさらに発音がシンプルでいいですね。外国人も日本語の曲は歌いやすいでしょう。ただし、日本語にもいろいろと規則があります。たとえば、日本語もフランス語ほどではありませんが、語頭にラ行音があまり来ません。その証拠に辞書を見ると、ラ行のページが極端に薄いことがわかります。だから、しりとりをする時は、終わりにラ行音が来る語を持ってきて相手を追い込むのです。これは日本語のこの特色を利用しています。では、なぜ日本語にはラ行で始まる語が少ないのでしょうか?もしその理由をチコちゃんに聞かれたら、何と答えますか?答えは〈日本語はラ行音で終わる言葉が多いから〉です。日本語では基本的にラ行音は、言葉の終わりを示すという役割が与えられています。たとえば、動詞を見ても、「る」で終わる言葉が多いですよね。だから、語頭にはあまり来ません。これが日本語に於ける音の役割分担です。だから、フランス語の場合も何か理由があるはずです。でも、そこまで調べる意欲も関心もありません。(Y)