今年も春がもう目の前です。

 

新しい春を迎える前の卒業時の時期は悲喜こもごも。

卒園、卒業、いろいろです。

 

こどもの卒業もあれば、大人の卒業もあり、

我が子の卒業だけでなく、親の卒業もまたあり、

そして仕事や生活の卒業から

ときに人生の卒業まで、

 

嬉しさだけでなく、時には、

寂しくも、悲しくもある いろいろな春があります。

 

みなさんの春はどんなでしょうか

 

今回、3回に分けて色々な「春、卒業」について書いてみようと思います。

 

 

エピソード1 「長い長いトンネルから」

 

我が家にもようやく訪れた、待ちに待った「卒業」の話です。

これまで、このブログであまり詳しくかかなかった我が家の「長女」の話をしたいと思います。

 

長女は、小さい頃から家族の愛情を全身で受け止めてすくすくと

育つ、天真爛漫な女の子でした。決して美人ではないですが、ニコニコと表情豊かで、誰からも愛されるキャラでした。

書道やピアノなど、何でもそつなくこなして、友達も多く、愛され目立つ存在でした。

 

その彼女に体調が悪くなり出したのが、5年生の頃でした。

朝になると頭が痛くなり、何度起こしても起きれない、学校へ行けない、こんなことが時々ありました。中学に入り少し落ち着き、友達関係も、そして勉強や部活動にまずまず頑張っていました。しかし、お年頃、多感で色々思うこともあったのでしょう、おまけにお医者さんのご子息だからという、身の丈に合わない周囲の変な期待や無言のプレッシャー、自分の中の違和感、などなど、正直しんどかったのでしょう。中学1年生の終わり頃(この時期が不登校の始まりとして最も多い時期ですね)から、頭痛で起きれない日々が続き、授業や試験が十分に受けられない日が増えてきました。成績も下がり、期待にこたえられないと自分をどんどん追い込んで行きました。とうとう、納得できる道へ進めないことに悩み、家族で相談して、私立専願で市外の女子校を選択。当時新設された特進クラスを受験(親の見栄ですね)。試験の当日も、予想通り気分が悪くなって急遽別室受験、試験どころでない状態。正直お情けで合格したも同然でした。

 

今、この頃までの私たち親の対応を振り返って見れば、

 

まさか我が子が学校へ行けなくなるなんて(うろたえ、失意)

結果、本人に対して厳しいだけの叱責、励まし。

なんで?なんで?そんなはずはない…(否定したい、嘘であって欲しい)

怠けているだけじゃ?何が不満なん?(子のせいにしたい)

 

1番目の高校、ダメなら2番目、安全には3番目、‥親の飽くなき見栄、周囲や祖父も巻き込んだ無数のプレッシャーを浴びせ、など、今落ち着いて考えると、狼狽えた大人達が、自分達の勝手な考えや、つまらないプライド、体裁など、一番しんどいはずの子どもそっちのけの押し付け論法で、自分達の不安を納得させようと動き回っていただけだったのでしょう。子のためと言いながら、自分達のためでもあったはず!?

 

でも、今だからこそ振り返って考えられますが、当時はそんな余裕も柔軟な思考も全く無理でしたね。

 

「不登校」

 

世の親達が、一番聞きたくない言葉、

でも我が家のことではない、関係ないだろう、

そう考えるものです。

 

実際にそうなって見ないと、当事者の辛い思いは決して分からないし、時には「甘やかしているだけ、わがまま言わせているだけ」と軽く言い放ちかねないですね。

 

苦しい、苦しい、ただそれだけ、絶望的で、家族の関係までぐちゃぐちゃになる、極限。

できれば味あわずにすり抜けて欲しい。

 

やっぱり経験した者にしか絶対に分からない思いです。

 

何を隠そう、診療の中で不登校の相談を多く受ける身の小生に、まさか降りかかってくるとは想像していませんでした。それまで、分かったような事を言い、理解した気持ちになっていた自分の浅はかさに気づく事になりました。当時までは本当に分かったような事を口先で綺麗事として言っていたのかも知れません。本当の当事者の気持ちが分かってはいなかったと思います。

 

毎日のように他人の子の不登校に一緒に悩み、一方で我が家にも大きな問題も抱えている毎日、交錯することが多く、正直辛かった。家に帰れば、夫婦間、祖父母との関係、親類との関係、多くのバトル、子どもへの叱責、罵り、怒鳴り合い、時に掴み合い一歩手前と、地獄の苦しみの毎日でした。

でも、「当の本人はそれ以上に辛いんだ」という事を、当時考えられていたかというと、余り自信がありません。

 

当の長女から見れば、親の見栄で入れた同然の高校の特進コースの勉強にもなかなかついていくのもしんどく、それがさらに彼女を追い込んだんでしょう、再びひどい頭痛で不登校の日々、限界がどんどん近づいていくのが分かりました。

ついに、「もう無理だな」と思える状況になって、高校一年の2学期に中退し通信制高校へという苦渋の選択をしました。我が家の誰もが経験したことのない道です。しかし、「苦渋の選択」というのは、親が自分達のしんどさだけを表す自分勝手な表現だなと、これを書きながら気づきました。

 

「通信へ行くのはイバラの道だぞ」

 

当時ある人の放ったこの言葉、なんと優しさのない言葉か。自ら経験もしたこともないこの道を、さも分かった様に簡単に言ってのける大人。慰め、励ましてこそ欲しいこのタイミングで、子ども向かってそれを言う??

理解できない怒りを感じた事をつい最近の様に思い出します。

 

世間もちろん、近しい人でも分かってはくれない、そんな問題。

 

「結局分かってやれるのは、親しかいない」

「何が何でも、あんたを守って行く」

 

この頃、愚妻が涙ながらに子どもを抱きしめて言った言葉に、支えられました。

 

 親は子供に一体何ができるか?

 親は子供に何をしてげるべきなのか?

 理想の親の子育てとは何? 

 その方法は?(親の思い描く通りに?子供の自由に合わせて?)

 

この時以来、この親の役割や立ち位置とは何かをずっと考え続けてきました。

その頃に、思いを新聞に寄稿した事は以前このブログでも紹介しました。

 

 

 結局、自由に口に出して「苦しい」「辛い」「しんどい」と嘆き、愚痴れるのは、周囲の大人だけ。当人は、言い訳も愚痴も言えずに、只々自分で苦しむだけ、耐えることを強要されるんですよね。

 

上手くいけば、親の手柄、上手くいかなければ子を叱責罵り、親って本当に自己中心だと、経験してやっと分かりました。

 

 頻繁に起こる頭痛に悩まされ、休み休みながら2年近くの通信高校通学。ゆったりとしたカリキュラム、正直勉強面では向上というレベルには程遠い、リハビリの様な生活。少しは元気になりましたが、その先に繋がる状況ではありませんでした。

おそらく、親が開業していること、自分が同業を選ばないと親が悲しむ、表面上目指すと言っておくことで、親を安心させようとしていたのでしょうか、無謀にも「その道を目指す」と言ってました。(両親から提案したことはないつもりでしたが、暗黙のプレッシャーを感じていたのかもしれません)

 

以来、延々続く、受験生生活と言う「長い長いトンネル」に入り込んだんです。

 

同級生の進学や就職、後輩の合格まで、羨ましい多くの情報が伝わる中で、自らをコンプレックスという殻の中に押し込み、耐えながら、ただひたすら家に閉じこもって黙々と学習する生活。楽しいことは何もない。正直、それを支えないといけない家族も、彼女と共に時間が止まってしまいました。

 

小生はと言えば、毎年のこの春の時期、多くの患者さんが頑張って夢を掴んだ嬉しい報告を持ってきてくれるたびに、本当に嬉しい反面、我が娘が不憫で不憫で心が張り裂けそうになる、そんな開業以来の6年間でした。

 

「何があろうと、支えて行く」

 

この妻の言葉がなければ耐えられなかったかもしれません。

 

本当に「時が止まり」「人間の成長までもが止まったかの様な」この6年間。

本当に、ただ辛かった。

しかし、そんな娘も、小生達大人以上に頑張り、耐え、気持ちを切らさず、時に泣いたりしながら、頑張りに頑張りました。

 

そして、今年もこの時期になり、これまで同様多くの大学を受験し、昨年までと同様に、「残念ながら」の結果ばかりが続きました。

女の子で4浪…… 5浪は耐えられないだろうな

 

しかし、しかし、しかし、…、ついに、

令和3年2月15日、午後の診察中に、妻と娘から電話が。

 

「お父さん、やっと大学生になれたよ」

 

その瞬間、これまでの6年間の色々なことが、まさに「走馬灯のごとく」一気に思い出され、涙が溢れてきました。

「ちょっと患者さんに待ってもらってね」とスタッフに言い、人目もはばからず嗚咽しました。

 

長かった、ただ長かった。

 

通信制高校は卒業したものの、妹にはある卒業アルバムもない、そもそも高校の思い出もあまりない、卒業資格は得たものの、自分の青春の思い出がないかの様な、宙ぶらりん、自分がどこに所属したのか確信がない、自分で何かをなし得た達成感もないまま、「形あるもの」を欲して彷徨う状況。

この様な経験や辛さは、多分、経験した子どもやその家族にしか分からない感覚だと思います。

 

「形ってそんなに大事か?」と人は言います。

でも、形が欲しい人や場合もあるんですね。

 

その形、種類や大きさはどうでもいいんです。子どもの自信のためには、何でもいいんです。何かの形が欲しい。

 

娘が何とか掴んだ1枚の切符、それは厳密には彼女が第一に目指したのとは違う切符、そして自宅から1000kmも離れた地への切符でしたが、そんな種類はどうでもよく、彼女がほとんど初めてと言っていいくらい「自分で掴み取った切符」だから、宝石のようなものです!

 

6年間という長い長いトンネルの出口にやっとたどり着きました。

6年間流してきた大量の辛い涙よりも、おそらく多い量の「嬉しい涙」を父は数日で流し切りました。

 

自分自身も行ったことのない地でのこれから6年間の生活、我慢した6年分以上の充実した生活を楽しんで欲しいと思っています。

 

同時に、別の地方で一人暮らしをすることになった次女と共に、一度に娘が2人とも家を出る状況に、恋人を2名失う様な寂しい父親の気持ちをぐっと我慢して、笑顔で送り出してあげないといけないと、頑張って自らを慰めています。

 

 これまで、診察の中で、不登校の子どもとその家族に、

 

今を何とか生きて、我慢して、時を待ち、そして何より家族で子どもを必死で守っていけば、きっとどこかでいいことがある、絶対に諦めてはいけない、将来子どもが大人になって、「あの時のこと」を思い出して笑顔で語り合える日がきっと来る、

 

そう思いを伝えてきました。

でも、正直本当にそんな日が来るんだろうかと、心の中ではいつも不安がありました。

 

でも、それは無理じゃないんだ、ということを示すことができたんです。

嘘じゃなかった、そう言える日がついにきました。苦労させてくれた娘に、感謝しないといけません。

 

もちろん、まだまだ人生のトンネルの一つを越えようとしている段階に過ぎません。これからも何があるかわかりません。辛かった経験を忘れず、真面目に謙虚に、そして与えられたチャンスを大切に、頑張って欲しいです。

そして、やっと手に入れた学生生活も十分に楽しんで欲しいと思います。

 

かつて自分が中退してしまった高校を妹(次女)が卒業するにあたり、自分が在学中にお世話になりその後も心配してくれていた当時の先生方に嬉しい報告を兼ねて、母親と共に卒業式に参列した長女は、式の間ずっと泣いていたそうです。

 

「できることならみんなと一緒に卒業したかった」、「できることならもう一度やり直したい」

ずっと言い続けてきた思いが涙となったのでしょう。

 

父は、その不憫さと表彰の気持ちを込めて、手作りの卒業証書を作ってあげました。

(手渡す際に読みながら号泣していた父でした)

 

 

 

先日、新しい生活に向けて引っ越しで訪ねた北の大地は、3月半ばで氷点下4度の世界、自宅から新幹線乗り継いで6時間かかりましたが、行ってみれば加古川とそう変わらないのどかな街で、正直ホッとしました。頑張ってくれるかな。

 

 

以上、不登校の子どもを経験した一人の父親としての経験を反省や想いを込めて書いてみました。

 

とはいえ、世の中にはまだまだトンネルの道半ばで、「もがいている」子どもたちがたくさんいます。

診療や相談を通じて少しでも力になれたらと応援したい想いをますます強くしています。

 

一緒に頑張っていきましょう。

 

「きっと、何とかなる」 そう信じて

 

今回は、最近経験した、卒業エピソードのうちの1つ目について書いてみました。

 

残り、2つのお話は後ほど…書いてみます

次回 エピソード2 「個性的な、卒業」。

次々回 エピソード3「親の卒業」

 

M.A.