ありがたきこと
6月5日から7日にかけて、診療所と病児保育室、FSドリットをお休みさせて頂き、日本小児神経学会に参加するため、陸路鳥取県米子市へ行ってきました。久しぶりの長期休診で、不自由をおかけしました。大山を横に見ながら、米子自動車道を妻の愛車でかっ飛ばし、3時間程で到着しました。県庁所在地と言えひとが少ない!平日だというのに、こどもの姿を見ない、加古川の方が賑やか、そんな街でした。後で調べて見たら、加古川市の人口254,091人に比べて、米子市は143,421人、鳥取県全体で528,962人だそうで、納得です!てんかん専門診療や神経・発達相談など、小児神経専門医が一堂に会する一大イベントで、その道ではご高名な先生方の顔ぶれを見ると、みなさん随分とお年を召されてきたなあと感じ、自分の年齢をも感じる様になってきました。以前に勤務でお世話になった多くの先生と、本当にお久しぶりの再会で、懐かしく、嬉しく思いました。若かった先生がシワシワになっておられたり、歩みもゆったりとなり、同じ施設で継続勤務の先生も、第二の人生的な方面でご活躍の先生もおられて、とにかく、皆さん、子どもをみる優しい眼差しで、さらなる精進(勉強)されているのを感じました。こどもの豊かな未来のために、「ありがたいこと」です4日間に渡り、こどもの脳神経、心理、発達に関する多くの講演などを拝聴し、知識の整理、アップデート、新しい発見などなど、まさに「お腹一杯」になりました。ここ数年前から、年に3-4回の学会参加時には、日常診療で、脳波検査などの担当し、時にこどもやそのご家族の心理相談に乗り、FSドリットで不登校支援、さらには、不登校その他の色々な子育てで、共に戦い、涙し、笑い、未来を見据える「同志、親友であり、尊敬し合える」「唯一無二」の愚妻(誰がじゃコラと言われます)と一緒に参加するようにしており、ちょっとした息抜き(リフレッシュ、ご褒美と呼ぶ)の旅でもあります。昼間はしっかり勉強し、夜はせっかくですので、その地方の特産を求めてハシゴする、これがちょっとした楽しみです。普段、朝から夜まで診療に明け暮れ、休みの時間にも相談を受け付ける身としては、ちょっとしたご褒美かなと思います。居酒屋で、白イカ、のどぐろ、猛者えび、ヒラメ(県魚だそうです)、白ねぎ、らっきょ、大山地鶏、梨、など、海と山の色々を、色々な形で頂きましました一番は、意外に「白ネギの天ぷら」でした。(淡路島の玉ねぎの様な位置づけでしょうか)最近、こっそりハマっている、辛口の日本酒として、鳥取、島根の地酒を頂きました。妻は一人では決して入れない、大衆居酒屋に入ること、そしてそれをハシゴする、これにハマっている様です地産のものを、その歴史を知り、生活文化に思いを馳せながら、「有り難く」頂きました!最終日だけは、奮発して、皆生温泉に宿泊し、大きな温泉でゆっくりと日頃の疲れを癒すことができましたさらに、帰りの道すがら、折角の機会で、以前より一度訪問したいと思っていました、島根県の「足立美術館」へ足を伸ばして見ました。多くの身術品の収蔵だけでなく、2003年から連続22年間、庭園日本一を守っている、その日本庭園は、まさに息を呑む、芸術性で、他にはない、唯一無二のものでした以前にドキュメンタリーで見た、庭師さんたちの、一年中のご努力のおかげで、素晴らしい日本の伝統文化を「ありがたく」拝見しました。ただし、帰りの昼食で立ち寄った島根の民芸「どじょうすくい」の実演は、残念ながら、妻の非乗り気のおかげで観ることは叶いませんでしたが、これも観ていれば「ありがたきもの」だったことでしょう。日本にも、まだまだ、知っている様で知らない、多くの文化歴史伝統があります。もっともっと、出会いたいです。7月は、連休を利用して、娘の民俗学研究のフィールフドワークに付き合って、九州へ研修旅行(?)へ行く予定もあります。これも、超マニアックで、何と「粥(かゆ)占い」の文化伝統に触れるという、まさに「ありがたき」内容で、今から楽しみです翌日の、日曜日は、家でゆっくりと思いきや、家の新調した仏壇に魂を入れてもらう(正念入れの)ため、お寺さん(僧侶)が来られて、お勤めがありました。その終わりの説法の中に、考えさせられるお話がありました南無阿弥陀仏、と念仏を唱えることの意味のお話で、私たちは、世の中、日々の忙しい生活の中で、いろんな「当たり前」のことを、「当たり前」だと思って、感謝をすること忘れがちであるというお話。「当たり前」の反対の言葉(対義語)は何でしょうか?と、問われました。答えは、「有難し(ありがたし)」です。つまりは、日々の色々な事、人間の生業における、ありとあらゆる物事は、そもそもは「有難い」事であるのです。朝目が覚めることは、健康に無事に朝を迎えられた、本当に「ありがたい」ことなのだと。全てのことは「本来は、有難いことで」、それが「当たり前の様に」見えて、体験できていること自体、「普通ではない」「感謝をすべき」ありがたいことなのです。このお話は、信心深い方には、ご存知の内容かも知れませんが、世俗にまみれている私にとっては、その説法は、新鮮で、なるほどと思うことが沢山頭を過ぎります。「当たり前」だと思うことが、思う通りにならないと、人はすぐ、怒り、悩み、落ち込み、時に人に辛く当たることもあります(子育てでは、自分も耳が痛いです)。思い通りにならないことを考え過ぎるより、そもそもが「存在し難いもの」だから、また次に頑張ればいい、いつか良い方向になれば、こう考えることができれば、毎日の不登校の話、愛着の問題、家庭環境の問題、などなど、色々な事象が救われるだろうに、そう感じました。日常、平安、平和、安寧、‥‥‥、いろんな言葉が、実は、「当たり前」ではなく、とっても「ありがたい」ものなんだ。何とも、心の力が抜ける様な感覚をおぼえました。毎日の始まりに、毎日の終わりに、その日、その瞬間に感謝し手を合わせ、そして謙虚に生きて行く必要があるなと思いました。ところで、我が家の庭の「畑」の野菜たち、出張中にも、どんどん大きくなり、本日、初収穫の「胡瓜」をいただきました。「ありがたし」同じく、花壇には、昨年は今ひとつだった紫陽花が、いよいろ出番とばかりに、生き生きと、その生の息吹を発しています。この日常、この瞬間、この花、この野菜、そしてそれを一緒に味わえる家族、そして心の友など……その全てが、「当たり前」ではなく、「ありがたき」事なのですね。さあ、明日からの診療に、明日からの生き方に、謙虚に向き合いたいと思います。ありがたや、有難や、有難しM.A.