妻が去ってひとり暮らすこの部屋はまるで、水底みたいだと思う。
綺麗とはいえない水で満たされた水底。
ダムに沈んだ村のように、そこにはかつて団欒があり、
他愛もないことで笑い合えた愛しい時間があった。
水面を見上げてみたところで、
ぎらぎらと不規則に揺らめく鈍い光は道標にならず、
ただただ奇跡的な何かを願って、
窒息しそうなこの場所に留まり続けるしかなかった。
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妻と会う機会は何度もありました。
今回は言おう、
なんだか今日はそんな雰囲気じゃない、
この次にしようかな、
それがよさそうだな、
この次にしよう、
こんなことを何度も何度も繰り返し、
ようやく妻に話を切り出すことができました。
春に決意が定まってから5か月が経っていました。
妻には、新居を探すつもりだと伝えました。
けれどその前に、と答えのわかっている問いを投げかけました。
「戻ってもうまくいかないと思う。いまの距離感がいいと思ってる」
妻は目一杯やさしくマイルドに断ってくれました。
一時メンタルの不調に陥った僕が、また同じようにならないか心配もされました。
そして改めて僕に、相手を見つけて子どもをもうけるよう言いました。
「少しでも若いうちに再婚して、子どもを持った方がいいと思っていたよ」
こういう経験をしていつか子どもができたとしても、もう100%喜べない
「それでもいいんじゃない?」
それじゃその奥さんと子どもがかわいそうでしょ
隣のテーブルでデザートを食べている4人家族に目をやり、僕はそう答えました。
いつかは違う考えに至るかもしれない。
そうだとしても、いまはこれが正しいと信じたい。
ともかく、これで離婚することが正式に決まりました。
率直に言えば、妻に言いたいことが何もないわけではありません。
しかしふたりの関係性において自分が絶対悪であり、
何かを言えた立場ではないことも自覚しています。
何より、ここまで待ってくれた妻には深く感謝しています。
妻の今後の人生が豊かなものであるよう、陰ながら願うばかりです。