西村眞悟2
今の日本で、何が優先順位の筆頭なのか?
極めて解かり易く説いた文章を受取った。
西村眞悟 氏のメルマガ「7月1日号」である。
-------西村眞悟議員のメルマガを引用------------------------------------------
国会は、六月三十日未明、事実上終了した。
衆議院においては、参議院より早く六月二十九日深夜、内閣不信任案採決を以て終わった。
この終了に際しての感慨を述べれば、遂に「内向きで後ろ向き」の争点だけをクローズアップさせて参議院選挙に向かうことになったのか・・・ということに尽きる。
即ち、この度のような年金の問題だけに関心を集中させて国政選挙をすべきではないのだ。
国民の将来への不安を人質にとって、その不安と不平を煽りながら狂奔する選挙は、建設的な結果をもたらさない。平成元年の参議院選挙であったか、消費税反対に狂奔して「山が動いた」と社会党が評価した選挙と同じだ。社会党へ山が動いてろくなことにならなかった。結局、消費税への不満を煽ることは議席を増やすための方便にすぎなかった。国益にとって意味のないことであった。
この度の年金の問題も、どちらか一方が鬼の首を取ったようにいきり立つ問題ではなく、与野党を含む戦後体制が生み出した問題として与野党一致して取り組まねばならない課題である。つまり、労使双方の病状が馴れ合い相乗して生み出してきた幽霊のようにこびり付く「五十五年体制」の問題なのだ。
従って、事実上終了した国会にいて感じたことは、どうもこの夏の参議院選挙は、今の人為的な情報操作によって醸成されたムードが続けば、意義ある選挙にならないのではないかということである。
どだい、自分を観ずに人の欠点を見つけ出したことや、人の不幸を見つけ出したことを、手柄や得点のように騒ぐときは、ろくなときではない。
この感慨を以て、六月二十九日深夜の、内閣不信任案の趣旨説明と賛成理由を聞いていたが、とうてい納得できるものではなく、従って不肖私は、内閣不信任案に対して「反対」の青票を投じた。
特に、社民党と共産党の内閣不信任案賛成討論は、よくもまあ今時こんなことをいえるなーと言う代物であり、これを聞いてから、彼らに同調して不信任案に賛成票を投じることなど、人間をやめて猿にでもならなければなしえないものだった。(ちなみに、私の出身政党である民社党には次のような諺がある。「便利なバロメーターは社会党だ。社会党が賛成しているときには反対するのが正しく、反対しているときには賛成するのが正しい」)
さらに、年金だけで大騒ぎをして参議院選挙に突っ込む日本の政治を国際社会から観れば、明らかに、江戸期以上に鎖国的である。何しろ、関心は内側にしかないのだから。
クリントン政権時代に日本を素通りして中国参りをすることをジャパン・パッシングといったが、今や中国も北朝鮮もアメリカも韓国も、安心してジャパンをパスして北京で会合を開いても不思議ではない。何しろ、日本の国政選挙の課題に、北朝鮮の核のことも拉致のことも無いのだから。
ところで、本日七月一日の産経新聞に、ワシントンの古森義久記者が「憲法の生い立ち想起」という記事を書いている。 この記事は、「日本側で『憲法を見直す』というような言葉を口にしただけで、『軍国主義』とか『保守反動』というレッテルを貼られる時代環境だった」ときに、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民政局次長でアメリカ陸軍大佐のチャールズ・L・ケーディス(当時三十九歳)にしたインタビゥーをもとに書かれている。言うまでもなく、ケーディスはマッカーサーの命令で短期間に日本国憲法の草案を書いたのである。
ケーディスはあらゆる質問に驚くほど率直に応えたという。これに対する古森記者の印象の総括は、「日本の憲法は、これほど大ざっぱに、これほど一方的に、これほどあっさりと書かれたのかというショックだった」。
もちろん、憲法九条もケーディスが書いたのだが、当のケーディスは、九条の核心とも言える「交戦権」の禁止について、「日本側が削除を提案するように私はずっと望んでいたのです。なぜなら『交戦権』というのが一体何を意味するのか私には分からなかったからです」と述べて笑ったという(以上、記事から)。
さて、憲法誕生のことは、ここまで分かっている。しかもこの憲法は、国防や拉致問題への取り組み、また治安維持問題に対する我が国政府を縛っており、はっきり言って手枷足枷となっている。つまり、我が国の国家存立を危うくする桎梏となっているのだ。
ケーディスのいうとおりに成立したケーディスが書いたこの憲法は、そもそも、有効なのか無効なのか(無効に決まっている)、次にあり得べき憲法は如何なる内容でなければならないのか。
いやしくも国政の場にいるならば、これは重大問題ではないか。しかもこの問題は、抽象的な問題ではなく、拉致被害者救出や治安維持、テロへの対処、核への対処、領土の保全という重大問題でも明らかなように、具体的な国民の命と国家存立に関わる課題なのである。しかも、緊急を要する国政の課題である。
惰性の戦後六十年を経て、遂に、この問題に政治が取り組まねばならない事態に立ち至っているのだ。
一体、この課題に全く目を閉ざして、この夏の国政選挙に臨むことが許されるのであろうか。
かつて、厚生省の課長は、薬害エイズ問題で「不作為」の責任を問われた。つまり、「為すべきことを為さずして惹起すべからざる事態を惹起させた」と認定された。
社会保険庁の怠慢を責めるものよい、自死した松岡農林水産相の「還元水問題」をしつこく追求して、還元水を飲んでいるかどうかマスコミを引き連れて彼の事務所まで覗きに行くのもよい、(それが政治だと思っているなら)、 しかし、熱心にそれをやっている国会が、それだけしかやらず、この期に及んで主権国家としての本来の姿を回復するために何もしないならば、これ以上の不作為の怠慢は国政史上無いのではないか。
社会保険庁の記録五千万件の行方不明どころではない。何しろ、お国のあるべき姿が、憲法という国家基本法の中で長年「行方不明」になっているのだ。この不作為は、国民の死と国家崩壊に至る。
以前にも書いたが、本年末から来年にかけて、韓国と台湾の大統領と総統選挙、さらに来年秋のアメリカ大統領選挙は、我が国が乗っている基盤を揺るがすものとなる。それに中国の、地殻変動が加わる。
それが、待ち受ける中での我が国の政治と参議院選挙だ。まるで、ナイアガラの滝に向かう流れに乗る屋形船の中で、嫁と姑が争っているようではないか。
以上が、年金問題で内閣不信任案が出た国会で感じたことである。
-------引用終り-----------------------------------------------------------------------
この文章で全て言い尽くしており、特にコメントは付ける必要性を感じない。