グレゴリー・クラーク
グレゴリー・クラーク
多摩大学名誉学長・国際教養大学副学長
1936年イギリス生まれ。1976年より、上智大学客員教授。同大比較文学部教授を経て現在に至る。
-----------JAL会員誌 Agora August 2006 P.49----------------
道徳は呼吸する
数年前、新潟で講演したときのことです。主催者側の計らいで、地酒をお土産に頂戴しました。ところが私は帰りの新幹線で眠ってしまい、迂闊にもそのお酒を忘れてきてしまったのです。
帰宅して気がつき、潔くあきらめることにしました。ご好意は大変ありがたかったのですが、お酒をそれほど嗜まなかったということもありました。ところが、二~三週間も経った頃、飯田橋警察署から電話がありました。私の酒瓶を預かっているから取りに来て欲しいというのです。
その顛末に私が驚嘆したのはもちろんです。警察署へ行くと、“×年×月新幹線遺失物”と書かれたラベルを付けた棚の上に私の酒瓶がひっそり立っていました。深くお礼を申し上げた後、私は係官に、「それにしてもどうしてこれが私のものだと分かったのでしょうか」と聞きました。すると彼は「酒瓶のそばに、あなたの住所と名前が書いてある空の封筒が落ちていたのです」と話してくれました。確かに、車内で手紙をいくつか開封し読んでいました。そのときに一枚落としたのでしょう。
「日本の鉄道のサービスが素晴らしいことを証明するだけでなく、日本人の正直さを物語るエピソードです」。私がこう言うと、係官は私を別室に案内し、正直な市民から届けられた財布を見せてくれました。財布だけで多くの戸棚を占領していました。
他の国と違って、日本ではつり銭のごまかしがほとんどありません。それどころか、つり銭を忘れて帰ろうとすると、店主が外まで客を追いかけてくることもよくあります。友人たちからも、金の入ったままの財布を忘れても間違いなく戻ってきた、とよく聞かされます。
「菊と刀」という有名な本の中で、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトは、日本は罪意識文化でなくむしろ恥意識文化だといっています。私なら人間関係道徳という概念を採りたいと思います。例えば我々非日本人の罪意識/原理原則をべースにした道徳は、罪、法律、罰という概念に頼っています。だがこれらは人々が、とくに処罰の心配がないときに、小さなごまかしをするのを防ぐに十分ではないのです。
もうひとつの例は、盲店が雑誌を通りに面した棚に並べることです。通行人が自由に読む、黙って持っていっても分からない。けれども、盗もうという気を起こす人さえ少ないようです。欲しければ中に入ってお金を払う.欧米社会ではこういう正直さは考えられません。
このように、日本の道徳には他国よりも優れた面がたくさんあります。けれども最大の弱点があります。日本の道徳のカは、伝統と空気に大きく依存していることです。空気とは、そこで暮らし生活する人間関係を指します。これらが希薄になったときどうなるのでしようか。
日本の商店の大半は万引きに無防備です。そこで伝統と空気に触れていない若者は、その無防備さにつけ込みたくなるのです。欧米では厳しく罰せられるところですが、今まで日本の店主たちは不心得者を罰することに消極的でした。問題は悪化するばかりなのです。
教育制度を変えれば、昔ながらの道徳か戻ってくると期待する年配者や保守的日本人の気持ちも分かりますが、それはとても難しいと思います。今では日本も、より、欧米的・アプローチに近づける以外に方法がないのでは、という気がしています。
------引用、以上-------------------------------------------
日本人のDNAは、本来「公徳心」「恥を知る」「正直」「毅然」だと思う。
戦後60年の教育が、日本人の気質を変えた。
しかし、DNAはそう簡単には変化する筈がない。
と、思いたい。
ここ数年、ユックリとマインドコントロールから目覚めた人々が現れ始めた。
金豚のミサイルは、ある意味有り難い。
平和ボケの眠りから、覚醒させる効果が少しはあったのでではないか?
実は私も寝ていた。
今からでも遅くない。目を覚ます。