司馬遼太郎は平成6年12月に
陸上自衛隊の幹部学校で講演をした。
日本陸軍をテーマに語ったそうだ。
そんななか、興味深い逸話がある。
ノモンハン事件は
戦車対人間の戦争であり
ゆえに壊滅的な大敗北を招いた。
ソ連の戦車砲は
簡単に日本の戦車を貫通した。
日本の戦車は使い物にならず
歩兵が火炎瓶を抱いて
ソ連の戦車に突っ込んだ、との事だ。
若き日の司馬遼太郎は
学徒出陣で戦車部隊に配属され
ノモンハン
(現・モンゴルと中国の国境付近の
草原地帯)で
戦争を実際に体験した。
壊滅的打撃を受けた戦車第一連隊に
所属していた彼の言葉は重い。


モンゴル(当時ソ連の従属国)
から言えば
ノモンハンは集落で
羊や馬の餌に最適な草原地帯であった。
ところが日本軍(満州国)
との間で常々揉めていた。
互いに譲らない国境線の主張であった。
結論から述べて
モンハン事件(1939年)は
ハルハ河をはさむ境界紛争といえよう。
発端は、小さな事件であった。
①:河の周辺で馬に水を飲ませに来た
モンゴル軍の兵士
②:満州国軍が追い払う
③:モンゴル軍が再度、数十騎現る
④:挑発と捉えた関東軍が飛行機で
モンゴルのテントを吹き飛ばす
⑤:スターリン(ソ連・指導者)が怒る
本格的な軍事力を現地に送る
⑥:日本軍に緊張が走る
対応する関東軍へ兵を増量する
国境侵犯のいざこざな事件から
紛争へつらなる。
このような事態が拡大されたのは
誰の判断なのか?
軍令機関の上層部は
現地(満州国)に関しては
関東軍へ委ねていたと
言われるが
天皇直属である関東軍にしてみれば
独自の行動がとれる慢心があった
と考えられる。

ソ連及びモンゴル軍VS関東軍
四か月足らずの断続的な泥沼激闘が
膨大な戦死を生む。
調査記録によると
火炎瓶で戦車に挑んだとある。
壊滅的な打撃を受けたと言われる
関東軍はソ連の軍事力をどのように
判断していたのか?謎である。
・9月15日 停戦協定が結ばれる 終結
・協定の結果 モンゴルの主張が通る
関東軍の勇み足で起きた
無謀ともいえる戦いは
1939年9月15日に終わるのだが
その後2年も経たずに
太平洋戦争が勃発する。