改めて家に踵を廻すと、スニーカーを脱いだ音が小さく音を立てました。
リビングでは、先ほどよりも少し背筋を伸ばしながら、母は同じチャンネルを眺めておりました。

私は母から少し離れた場所で声をかけました。

「明日仕事休んで病院行って来るわ」

まるで風邪を診てもらうような口調で私は伝えました。

「おっかぁも行くわ」

母は視線を外したまま、即答しました。
その言葉には、何かを推し量る装飾はありませんでしたが、私を慮っているのは十分に伝わりました。

「おう、じゃあよろしく。紹介状で行く人間は午前中じゃないと受付できないから八時半に行く」

病院、紹介状、受付──。
その言葉を口にするたび、墨汁を数滴落としたような、ぼんやりとした不安が、胸を中心に広がっていくのを感じました。

頭では理解しようとしていても、心の奥にある核のようなものが認めることを拒んでいました。
まるで寄せては返す波が、受容と回避を繰り返しているような感覚です。

私は黙って、騒々しくなりつつある胸中を仕舞い込むように、母とは別のソファーに身を投げました。
そのまま携帯を眺めていると、母が思い出したかのようにふと呟きました。

「まぁ、ガンだったとしても今は手術して二週間入院したら後は通院だから」

「ガンなんでこのご時世では大したことないよ」とでも言いたかったのか、さらりとそれだけを呟き、再び画面に意識を戻し始めました。

会話が途切れると、その間画面の中にいるおばちゃんの声と、愛犬が歩くたび発する乾いた爪音だけが細く響いていました。

今朝の先生の物言いから、明日からはなんの病気であれベッドの上で過ごすことになることをどことなく覚悟しておりました。
それも少なく見積もって週単位でです。

薬を用法通りに飲む。温熱治療器に背を温める。腕の良いと言われている都内の整体師に掛かる——。
どれこれも気持ち程度の効果しかなく、言ってしまえば暖簾に腕押しもいいとこでありました。

ただ食欲は十分にあり、車で移動し外食をする気力まではありませんでしたが、食べたいものを食べておこうという気持ちはありました。
出前アプリを開き、ひとしきり迷った挙句に選んだのは——普段は選ばないピザでした。

「ピザ頼んだから、おっかぁも食ってくれ。でかいの頼んだから一人では食べ切れんわ」

母はあからさまに怪訝な表情を浮かべ「ピザなんて健康に悪いもの食わんから。お前一人で食べろ」と吐き捨てました。

母は極端な健康志向で、スーパーで売ってる野菜すら農薬云々で品質を信じておりません。
季節の野菜を自分で育てているほどで、こういう結果になるのは何となく分かっておりました。

出前を取り四十五分程が過ぎたころ、インターホンが鳴りました。
応答用の白いモニターに目をやると、ピザの箱が入ったビニル袋を手に持った配達員でした。

私は喘鳴しながら家から”気持ちだけ“駆け出すと、待望のピザを手に取り嬉々とした気分でした。

赤と青のロゴが印字された『ドミノ・ピザ』の箱。
数年ぶりにみるそのデザインを眺めながら蓋を開けると、生地の温もりとサラミの燻した匂いが鼻に抜け、重たく燻っていた体の奥に“生”が循環するのを確かに感じました。

頼んだのは【クワトロ・ペペロニラバー】
サラミやペパロニがトッピングされた普段は食べない贅沢なピザです。
ちなみに選んだ理由は単純で、肉肉しいものを食べたかったからです。

肺がんの疑いがある人間が香辛系のピザを頼むとはいささか滑稽に感じますが、そんなものは今後未来なぞ一ミリも考えることが出来なかった私にとってはナンセンスな話です。

一切れ目を口に運ぶと、クリスピー生地の確かな歯応えが、軽やかに歯に通り、まるでスナック菓子のような親しみやすい味わいを持って口の中に広がっていきました。

喉に詰まりそうになるものの、水で強引に流し込みまた一口食べていきます。
苦しいのですが、食べる喜びにはまるで敵わず、四種類のピザを全て楽しく味わうことが出来ました。

しかし、ひとしきり食すると胃が重たくなり満腹になってしまいました。
結果的にピザの半分とポテトがほとんど残ってしまいました。

「おっかぁの分も想定して、デカいの頼んだんだけど、俺限界だわ」

母の反応を探るように、私は遠回しに食べてほしいと訴えました。

母は「えぇ~体に悪いものは食べない」と両目を閉じながら、まるで目の毒だといいたげな表情を浮かべました。

クーポンを使ったとは言え、ただでさえ高額なデリバリーピザを残すのは勿体無いです。
何なら食べられなくなった時後悔すると思い「じゃあ俺が全部食べるわ」と言い、ピザと黙々向き合うことにしました。

私が母がいたソファーに入れ替わりで座り、机に置いたピザを食べていると、その横隣で母は正座をし始めました。
そのまま腕を組みやや背を前傾させ机に肘をつくと、何かを理解したかのように何回か頷き、目線を下に滑らせました。

「これは予祝なのか……。そう、これは予祝なんだ……だからピザなんだ」

私がピザを食べている姿を見て、不意に母は自分に言い聞かせるようにふと言葉を漏らしました。
その声色は自分を無理矢理納得させるような、あるいはアニメやドラマの独白に近い、誰に対してもベクトルをむけていないうずめきに感じました。

——予祝。
願いが叶う前に、先に祝っておく風習です。
因みに当の私は予祝なぞ全く思っておらず、ピザが食べたくなったから食べているだけです。

「このピザは治った前提で食べてるんだな、じゃあ食ってやる!予祝だ!」

自己暗示をするように言い聞かせながら、ピザを一切れ、ポテトを一本、リズミカルに口に運んで行きました。

この頃、スピリチュアルな世界に傾倒していく母に、私は意図的に距離を置いていました。
何故ならば、どんな言葉もスピリチュアルに置き換えらてしまうため、会話が通じないと思っていたからです。
今は遠くにいる妹と結託し、説得を試みた日もありましたが「ああ言えば、こう言う」状態で収拾がつかなくなっておりました。

正直な胸中、一片のピザに対してここまで意味づけしなければならない母に、呆れる気持ちがないわけではありませんでした。

しかし、母も自分を思って予祝を行っていると思うと、ほんの僅かですが私は胸が救われるような気持ちになりました。

次回へ続く