夜——。

私はやはり、呼吸が苦しく寝付くことが出来ませんでした。

いつもように、温熱治療器に背中を押し付け必死に目を瞑っても、暗澹たる不安と呼吸の乱れにより、目が意志に反目するかのように開いてしまいます。


「俺は肺炎なんだ……ガンなんかじゃない。一週間も入院すれば完治して笑い話になってる」


病は気からということわざは、今となっては真理に近い存在思えてきており、心の中でポジティブな言葉を祈りのように唱えることを心掛けました。

少しでも“祈り”を止めると、すぐに弱気な自分が顔を覗かせ、それこそガンのように、不安が正常な心に浸潤してくるような感覚に陥ったからです。


右腕に付けているスマートウォッチのモニターが「23」と浮かび上がった頃、携帯から小気味のいい振動がベッドを通して私の身体に伝わりました。

私は微睡むまでの過程がふりだしに戻されるようで、少し嫌な気分になりましたが、目を薄く開き眉間に皺を寄せながら、白々と眩い光を放つ携帯の画面を見つめました。


そこには【彼女】という表示と、三月に二人で訪れた、報国寺の竹林を下からの画角で撮影したアイコン映し出されておりました。

私は人差し指で画面をそっと滑らせ、携帯を耳に当てました。


「もしもし?」


「あ、もしもし?」


着信主は小さく掠れた声で挨拶を返してきます。

大体こんな声色の日は疲れていて、おそらく布団の上で仰向けになりながら、電話を握っているのでしょう。

ボリュームが小さいのは、“彼女曰く”気難しい妹が仕事から帰宅していて、喧嘩の種にならないよう、声を押し殺しているのだと思います。

その証左として、電話の向こうからドライヤーの音や、鼻歌のようなものが、途切れ途切れに聞こえてきます。


「今日はいろいろ付き合ってくれてありがとう。で、どうしたの?」


深夜帯、いきなりの電話に良からぬ事情を話すのでないのかと思い、声のトーンを落とし、懸念を滲ませました。


「お母さんから明日病院に行くって聞いたよ」


私の母は意外にも今後のことを、彼女に報告しておりました。


「そうだよ、明日八時半時には行って受付する予定」


「そうだよね、そうだよね。でさ、お母さんが仕事を休めないらしくて、最短でも十三時半に総合病院着らしいから私が行くことになったよ」


思わず眉をひそめてしまいました。

なぜ母はあの時行けると言ったのか——。

仕事を休める目処があったのかはよく分かりませんが、とにかく母は午前中同席出来ないということが理解できました。


そしてもう一つの疑問点。

それは彼女自身も明日仕事があります。

実の所、彼女は五月末で今の会社を退職し、六月一日から別会社へ就職する予定です。

有給も買い取って貰ったと前に話していたため、どのような方法で仕事を休めたのか気になり、彼女に問いかけました。


「私の母親が倒れたから、お見舞いに行かせて欲しいと頼んでみた。もうすぐ辞めるし嘘も方便って感じで」


彼女はイタズラっぽく、さらりと返答しました。


「それで許してもらえた?もう辞めるのに」


「それは行った方がいいってむしろ後押ししてくれた!」


声を押し殺しながらもその鼻息の荒い口調からは、画面で向こう側でしたり顔をしているんだろうなと、容易に想像することが出来ました。


彼女は続けて、

ただ、八時に社長のお母さんの送り迎えをしないといけないから、社用車で直接病院に行くよ。十二時半には戻らないといけないから、そこからはお母さんと交代だね」

と私に言葉を投げました。


「一緒に入れる内に診断出来るといいね。本当に助かるよ……ありがとう」


彼女がスピーカー越しでも分かるよう、振り絞った声で感謝の言葉を伝えました。


「大丈夫、大丈夫。一緒に病院に行こう!」


合計十五分ほど言葉を交わし、音声は途切れました。


心強い味方が増え一安心どころではありません。

しかし、心強い味方も明日にならなければやってきません。

少し時間経つと、また不安が迫ってきました。


“今夜が怖い”


こんな感覚に陥るのは初めて親と別々に寝た、小学生二年生の時以来です。


こんなことを言ってしまうと呆れられるかもしれませんが、隣にいて、黙って私の手を握ってくれるなら、家の向かい側の畑で、いつも何かを耕しているおじいちゃんでも構いませんでした。

とにかく、自分以外の温もりを感じられれば心に余裕が生まれる気がしました。


まさか「ガンの疑い」という一言だけでここまで心細くなるとは、自分でも想像しておりませんでした。


頭に浮かんだのは、照明が点灯していないプールです。

夜中、何者かに抱えられながらいきなり突き落とされます。

パニックになりながらも姿勢を整え、目を見開くと、無常にも冷たく暗い水がどこまでも広がっております。

月明かりだけが、波打つ水面を俄かに白く閃輝させておりますが、それが頼りになるかもわかりません。


25mプールなのか、50mプールなのか見当もつきません。

もしかしますと、このプールはあまりにも広大すぎて、永遠にプールサイドに手が届かないのかもしれません。


底に足がつかず、このプールが想像以上に深いということは何となく理解できます。

とにかく必死に水を掻き、体力が尽きるのか、無事プールサイドに辿り着くことが出来るのか——自分の未来は極端に単純な二択で構成されています。


明日が来なければ、水は掻けない。

関わってくれる人達は私の照明。


目を閉じて照明が点灯するのを必死に待とうと思い、不安に満ち溢れながら今夜も目を強く瞑るのでした。


次回へ続く!