朝日が青いカーテンを通して淡く透けて見える頃、瞼の裏に柔和な灯りがともったように、私は音もなく覚醒しました。


一階からは何の物音も聞こえてきません。

おそらく、田舎の広い地平線の向こうで太陽が顔を覗かせたばかりで、両親も、愛犬も、まだ夢の中なのでしょう。


「もう少し眠っておけば良かった」と後悔しましたが、刻一刻と近づいてくる診察への緊張からか、ほとんど眠れていなかった筈の身体が不自然なほどに冴え渡っていました。


私は肘をつき、寝具に深く沈んだ胴体を起こします。

その拍子に背中を丸めると、横隔膜に肋骨の間に、異物のような引っ掛かりを感じ、反射的に空咳が漏れ出てしまいました。


「大丈夫だ。今日で全てが分かる。きっと肺炎なんだ」


「俺はガンじゃない。俺はガンじゃない。俺はガンじゃない」


昨夜の彼女とのLINEで送信したフレーズを、脳の中で意図的に反芻させながら、階段の手すりを掴み一段ずつゆっくりと降りていきました。

最後の一段を爪先からゆっくりと降りると、リビングには案の定灯りがなく、カーテン越しの薄明かりだけが床に長く伸びていました。


私はソファーに深く腰を落とすと、足を三角座りの要領で折り曲げ、周囲を見回します。

いつもなら忙しなく朝食をかきこみ、小走りで駅まで向かう朝も、今日は半年振りに有給を消化したため、静かな時を過ごすことが出来ます。


それ故か、少しひんやりとするソファーの背もたれも、今の私にとっては居心地よく感じられました。


数分——。

居心地の良い静寂に身を任せていると、二階から床を細かく引っ掻くような音が聞こえました。

足音を追いかけるように、もう一人が続いて下の階へ降りてきます。


「よう、今日は早いじゃん」


父と愛犬です。

私を見るなり、両手で抱きかかえた愛犬をゆっくりと床に下ろし、低く落ち着きのある口調で話しかけて来ました。


「今日も背中が痛くて眠れなかったわ」


私は三角座りを解くと、足を勢いよく伸ばし、歯を食い縛りながら一つ伸びをしました。


「そうか……また病院に行くらしいな。お母さんから聞いたよ。とにかく、病名が分かったらすぐに連絡を寄越してくれ」


父の声は、事情を知っているとは思えないほど淡々としていました。

そのような声色の節々に、無機質なものを感じ取っているのか、母は父のことを“キカイダー”と名付け度々私に愚痴を溢しております。


「昭和の親父が理想だ。俺はお前の“お父さん”じゃない。“親父”と呼べ」


父が酒の席で目を三角にしながら私によく言うフレーズです。


威厳があり、寡黙で、仕事人間、不器用——。

実際は酒の席以外で母に逆らうことが出来ず、威厳はほとんど形骸化しているも同然ですが、その他の文言は言葉の通りだと感じます。

しかし、母は父を色眼鏡で見ている節があり、私から言わせると父は決して機械的な人間ではないと思います。


そんな“自称”昭和の親父も、この時ばかりは丸まった背中を私に見せ、少し重い空気を漂わせていました。


「よし、行くぞ」


犬の散歩用に使用している上下鈍色と紺色のジャージを身に纏い、白く縁取られた空色のハーネスを愛犬に装着すると、愛犬に一言呼びかけ日課の散歩へ出掛けて行きました。



日が昇るにつれ、今まで足元に溜まっていた冷ややかな空気も、少しずつ本来の陽気を帯びてきました。

父は散歩を済ませ、昨日の残飯を平らげると、すぐに端正なスーツに着替え「……行ってくる」と含みを持たせたまま私に言い残し、玄関を後にしました。


それを狙っていたかのように父とすれ違いで母が一階に降りてきます。

父と同じく「早いね〜」とだけ私に向かって言い、テレビをつけ、おもむろに朝食の支度を始めました。


「いつものトマトスープだけど飲む?」


母の問いかけに私は「いらない」と、近寄って来た愛犬の背中をさすりながら答えます。


「あっそう」と母は短く返すと、母は以前畑で採れた野菜を刻み、煮立ったトマトジュースの鍋に放り込みました。

しばらくすると酸味のあるスープの香りが部屋を満たし始めました。


母はそれをコップに注ぎ口につけると、テレビのチャンネルを“母には縁のない”証券番組にしました。


以前、何故この番組を見ているのか尋ねると「天気が見れる」ことと「朝から嫌なニュースを見なくて済むから」と母は答えました。

汚職、詐欺、殺人、虐待——などの言葉は運気が下がるらしく、目に触れないように意識しているとのことです。



時計の太い針が「九」を指す前、仕事の身支度を整えた母が、玄関に向かう前の扉で振り向き、私を見つめました。


「お前が今日行く病院、凄くいい病院だから。お前が毎日痛いと苦しんでいた肩や背中の原因もわかるよ。勝った気でいな!」


そう強めの語気を言い放つと、藁で編み上げた手提げ鞄を勢いよく持ち出て行きました。


母の車の音が徐々に遠ざかっていくと、耳障りな証券番組の音声だけが、覆い被さるように耳に侵入してきました。

仄かに漂うトマトスープの残り香が、母がそこにいた証跡となっていますが、不安を取り除くにはあまりにも頼りのないものでした。


また心に薄ぼんやりとした不安が立ち込み、家にいるのが怖くなったため、

「今から病院向かうよ。外来用の玄関で待ってる。いつもごめん」

と、救いを求めるように彼女のLINEに一言添え、車の鍵を握りしめました。


「おっかぁの言った通り、笑っても泣いても今日で原因が分かる」


玄関を出る時、愛犬が柔らかい埃叩きのような尻尾を振りながら、追いかけてきました。

これも日常の風景です。

私は愛犬の顎をさすり、好物の砂肝を渡すと、愛犬はすぐソファーまで戻り、私を一心に見つめながら大切そうにそれを口に含んでいます。


十歳になる愛犬——。

ことあるごとに私は「コイツに先立てると、今後生きていけるか心配」と冗談本気半分で周囲に漏らしておりました。


「まさか、俺の方が早く逝くかもしれないなんて」


当時はそう思うことなど、夢にも思っておりませんでした。


酒もタバコもせず、運動も毎日励んでいる自分の人生は、短くても四十年は健康的に生きながらえると勝手に思っていました。

でも、それは今思うと傲慢なのでしょう。

「死」はいつも公平、理不尽で、どんな人間であろうと“一寸先は闇”であることを、三十年の自分史の中で深く刻む形になりました。


「親孝行」「祖父母を看取る」「彼女と結婚」


胸底に湧き立つ“生きたい理由”を、パズルのピースのように一つ一つ額縁に嵌め込みながら、私は病院へ車を走らせました。


次回へ続く