誰かとの間に縁があったか無かったかは、時には出会いの重さではなく、別れの重さによって決まることもある。

 私たちの家は、いわゆるピーナッツ住宅である。今年の秋ごろ、妻と私が住んでいる家の大家さんで、同じ庭を共有するお隣さんのおじさんが亡くなった。良い方だった。親切で、優しくて、本当の意味の配慮が分かる方であった。

 私たち夫婦は、数学塾を運営する彼のことを塾長と呼んだ。

 「家賃を上げることはないですから、子供二人産んで、育つまでここで住んでください。」

 引っ越してきたばかりの私たちに塾長が話しかけた最初の言葉だった。

 あのあと塾長と一度だけの飲み会をしたことがある。昨年の春だった。庭にレンギョウ、タンポポ、桜などあらゆる春の花が見事に満開した日だった。私たちはお昼から庭でバーベキューパーティーをした。塾長は肉をコチュジャンにつけて食べるのが好きで、焼酎とビールを混ぜて飲んでいた。私は肉もお酒も断ることなく貰うがままに食べ続けていた。ちょっとだけ付き合うつもりだったのに、いつのまにか酒が足りないことに気がついた私はついにはとっておきのパウラーナービールまで家から持ってきては飲み干すことになった。

 「ピアノがしたいからって、せっかく通っていた良い大学を辞めて再び音楽大学に入った息子がどうにも理解できません。頭もキレて、見た目も悪くない奴だからそのままの道を進めば保証された人生なのに、なぜ自ら苦労をするのかね。」

 酒に酔った塾長の口からは息子への残念さ混じりの不満の言葉が続いた。

 「よく分かりませんけど······私は窓を開けると聞こえてくる息子さんのピアノの音が好きです。」

 私は深く考えずにそう答えた。ラフマニノフを練習する塾長の息子さんのピアノの音は本当に好きだったが、もしかしたらそのとき私の頭の中には頭の固いオッさんなどの気早い言語が漂っていたかもしれない。

 塾長との最初で最後の飲み会は、お互い少しだけの本心を見せたまま終わってしまった。次の日、彼は出勤することができなかった。

 数日の間、少しも動かず駐車場に止まっている塾長の車を見て、私はおばさんに尋ねた。

 「なぜ塾長は出勤しないんですか?」

 「飲みすぎて具合が悪くなったのか、ずっとお腹の調子が悪いらしいわよ。胃炎かな?」

 たまにああなる時があるというおばさんの言葉を聞いてそれ以上のことは気にすることなく日々を過ごした。

 しかし、レンギョウがその花を隠して、バラがフェンスをまとって、落ち葉が転がって、雪が積もり庭のすべての植物が凍りつくまで、おじさんが庭で肉を焼くことはなかった。ピアノの音ももはや聞こえて来なくなった。

 私はその春から冬までの間、ただ胃がんだろうと思っていた。直接尋ねるには中途半端な間柄だったし、今の世の中では胃がんはそんなに珍しい病気ではないから、最悪のことにはならないだろう、と考えて自分を安心させようとした。だが、少しだけの罪悪感が私の中にあったと思う。最後の飲み会がよりによって私と一緒だったことからの…。

 私に出来るなことがあればいつでも言ってください、私に出来ることがあればいつでも言ってください、私はおばさんと出会うたびにそういうことで罪悪感を払おうとした。

 そんなある日、庭で雪のように真っ白な珍島犬の子犬の吠えている姿が見えた。本人が出勤をすると一日中独りきりになる塾長のためのおばさんの配慮であった。

 日々が経つにつれて子犬は小さい木が育つようにすくすくと大きくなり、塾長は枯れた葉のようにごそごそと痩せていった。数ヶ月ぶりに偶然出会った塾長は、今まで私が知っていた人ではなかった。90kgは十分ありそうに見えた風采の良い体は元の姿を失い、ただ細い骨に薄い皮が付いているだけの、かろうじて40kgあるかのような痩せ細った体になっていた。毛が多くツヤのあった髪もその姿を消してハゲ頭になっていた。しかし、何よりも疲弊したのは、心の方のようであった。彼は人を避けていた。私と目が合ったのにも関わらず私を見なかったふりをして、禿頭を恥じるように毛帽子を目深に被り、彼は私を通り過ぎていった。私はその時になってようやく、ああ、これはただことではないことに気がついた。

 

 

 しかし、隣に住んでいること以外、これといった接点も親交もない私に出来ることはなかった。たまに田舎の実家から送られてくる有機野菜や果物などをあげたり、作った料理をあげたりするくらいの些細な配慮くらいしか私に出来ることはなかったのだ。しかし、そのような私の配慮にはある卑猥な対価意識のようなものも混ざっていた。おじさんが亡くなった後、その広い2階建ての家におばさん一人で寂しく暮らすよりは、家を売ってマンションや一人暮らしに適した便利な住まいへ引っ越したほうが賢い選択というのは誰にでも予測可能な明白な事実であった。今の時代に、新しい大家さんが住宅保証金を上げるのは火を見るより明らかなこと。私は死にかけている人に配慮を装ってあることを押しつけていたかもしれない。 「家賃を上げることはないですから、子供二人産んで、育つまでここで住んでください。」 塾長が私たちに渡した最初の言葉を、私はまるで死んでも守るべき約束であるよう履行を強制していた。もちろん、純粋な配慮も一部はあったのだろう。しかし、その裏にある影の色がより濃かったのは否めない。

 

*

 

 この家に暮らし始めてから二回目の春が訪れてきた。

 息子さんと娘さんは父親と一緒に居るために休学届を出して家に帰ってきた。開いた窓からピアノの音が、たまには笑い声が聞こえてきた。経過が良いのだろうと、私は安心した。

 その間に私はうんざりする公務員生活をやめて別の仕事の準備をしていた。

 「最近、塾長の具合はいかがですか?」 その短い言葉を、私はおばさんにどうしてもかけられなかった。<いかがでしたか>その短い言葉に、主語になる人物に対する懸念よりは私の家族の安易への思いがより大きくにじみ出るはずだったからだ。

 何も聞けないまま、ただ私がとても心配をしていることだけを絶えずに匂わせたまま、夏が来て、また過ぎ去った。

 秋、土曜日の午後、隣のおばさんから電話がかかってきた。

 「彼を病院に連れて行きますけど、もし時間が大丈夫だったら病院までちょっと乗せてもらえますか?私はそこまで運転する自信がなくて…」

 「分かりました。」

 病院で使うあらゆる荷物を載せて私と塾長とおばさんと20歳の娘さんの4人は一緒に車に乗って病院に向かった。庭の珍島犬のソルがワンワンと私たちを見送った。車の中で娘さんはお父さんになんなんと喋りかけた。友達と撮った写真を見せて「この子は最近彼氏ができて、この子は大学に入って…」 のような日常の事柄をずっとお父さんに聞かせた。気力のない塾長は苦しい様子でありながらも楽しそうに娘の言葉に耳を傾け、「私はその子はちょっと苦手だな。なぜか好きになれない。でもあの子は好き。あの子は明るいし可愛い。」と言い返した。

 ソウルの都市高速化道路を通るとき塾長は私に話をかけた。

 「新郎さん、家内から話しを聞いた。お仕事をやめたんですって?」

 私は極まり悪そうに答えた。

 「はい、そうなりました。」

 「最初は正直、どうしてあんなに良い公務員職を辞めたかと思いました。たくさん心配もしたし。でも、病気で苦しい思いをしてみると、その考えは間違っていることが分かりましたよ。私が最も幸せな時がいつなのか分かりますか?家族みんなで横になって楽しく話し合う時も大切だけど、本当に私が幸せなときは痛みを感じないときです。一日中ずっと死ぬほど痛いんですよ。でもある瞬間、嘘のように痛みがすっと消える数秒間が訪れてきます。私はその痛みのない3秒間が一番幸せ。

生きるというのはそんなに大したことないみたいですよ。痛くなければそれでいい。苦しみなく、やりたいことやりながら生きる、それが本当の人生なのだと思いますよ?だから新郎さん、よくやったよ。今後も嫌なことを無理やり我慢しないで幸せに生きて。」

 低く、とても低く、ささやくように気力のない声で口ずさむ塾長の言葉に、車の中の私とおばさんと娘さんは涙をこらえるために口を閉ざしたままそれぞれの車の窓に目を向けた。秋の空は本当に高くて綺麗な青色だった。

 いつのまにか病院に着いて荷物を降ろして塾長一家を送った後、私は再び家に向かった。帰りの車の中では痛みのない3秒、その言葉が頭をぐるぐる回り続けた。

 それから数日が過ぎた。夢を見た。隣の家では和風の家内葬式が開かれていた。私も参加し、線香を上げてお礼をした。息子さんの部屋で彼と一緒に楽しくピアノを弾いてる途中、夢から目が覚めた。

 妙な夢のせいか、変な予感がしておばさんに控え目のメッセージを送った。 「大変聞きづらい話で申し訳ありませんが…塾長はいかがですか。」 そのメッセージから心配を装った偽善の匂いがしなかったとは言い切れない。しかし、その瞬間は確かに心配の方が大きかった。

 返事がきた。

 「心配しないでください。良いところでゆっくり休んでいますよ。」

 宗教を持ってない私は、人生初めて妻と一緒に祈りを上げた。いいところでゆっくり休まれることを、心の底から。

 次の日、私はいくつかの食べ物と香典袋を持ってお隣に訪ねた。修羅場になった家をおばさん一人で片付けていた。これまでリビングで生活していたようで、大人用のおむつ、ふとん、薬の封筒など、いろんなものが散らかっていた。死闘の現場だと、私は思った。

 持ってきた食べ物を食卓の上に置きながら私は言った。

 「お茶を一杯頂けますか。」

 私たちはテーブルの周りに座って色々と話をした。

 「膵臓癌でした。発見した時はまあすでに手遅れでしたね。」

 「わざと連絡はしなかったんです。幸せに暮らしている若い夫婦に喪中なんか知らせるのも申し訳ないですしね。」

 「病気の時もあの人はしょっちゅうマッサージをしてくれましたよ。苦しくて歩くことすらろくにできなかった人がどうやってそんなに指先の力があったのか不思議。言わなくても私の凝っているとこが目に見えるように分かって揉んでくれたのね。評判のマッサージショップに行ったって、彼からしてもらったマッサージとは程遠かったわ。」

「彼の下のお世話も全て私がしましたよ。いつか、おむつ換えの時に彼が謝りました。精神はしっかりしていたから。うつ伏せでずっと謝ってましたね。面目ない、申し訳ないと、ずっとその言葉ばかり繰り返していました。だから私は彼に言ったんですよ。私は元々介護士になりたかったと。今後、引退したら介護福祉士の資格を取ってその仕事をすると。だから、あなたが私に謝ることではなく、私があなたに感謝しなければならないと。だって、このように事前に練習する機会を私に与えているんじゃない…」

 「最後に入院したとき、ベッドのシーツを変えて、体を拭いて、尿袋を変えて、鎮痛剤ももう聞かない時期だったから彼の痛いところをマッサージしてから眠っていることを確認して、補助ベッドに座って家から持って来たものであまり進まない食事をしていたらふっとこのような思いが浮かんでくるのです。大変だ、と。その前までは一回も大変だと思ったこと無かったです。なぜだったかは分からないけど全然苦しくも辛くもなかったし。でもその瞬間は、本当に大変でした。だから彼に、あなた、私もう疲れた、と言いましたよ。そしたら彼がもういいと。彼自身も十分頑張ったし、耐えられるところまで耐えてきたから。だからもう送ってくれと。」

 「私は自信がないと言いました。あなたが行ってしまえば子供二人の子育てを一人でする自信がない。息子は無口で口数も少ないし娘は母とは話が通じないからと言ってあなたの事ばかり慕っているのに、私一人でどうすればいいの。と言ったら、彼はあなたならうまくやっていけると言ってくれました。親はしてあげられなかった事ばかり気にして、子供はもらえなかった事ばかり記憶すると。よく考えてみて、あなたはいいお母さんだと…」

「彼の兄弟や私のお兄さんたちもこの広い家で一人暮らしするよりは他のマンションとかに移した方がいいと言ってくれてますけど、私はイヤよ。窓を開けると花も見え、木も見え、ソルちゃんも見えるこの家が好き。だから新郎さん、引っ越す気がないのならずっと私の隣に住んでいて下さい。花嫁さんと新郎さんが私にとってどれだけ頼りになるのか。家賃をあげたりすることは絶対ないからこれからも私と一緒にここで長く長く住んで下さい。お願いね。」

 お話を終えたおばさんはお葬式催事用のいろんな果物を大きい袋に包んで私にくれた。抱えている袋の大きさほどの恥ずかしさが胸いっぱいだった。

 

*

 

 一週間が過ぎてからおばさんは長かった休みを終えて職場に戻り、二人の子供は学校へ戻った。

以前と変わらない生活が続いた。

 町の散歩を終えてからの帰り道の私を住宅団地の管理人さんが呼び止めた。

「最近、おじさんは元気なのかな?」

 私は躊躇して控えめに、亡くなりました、と答えた。だが、歳で耳が遠い管理人さんには聞こえなかったのか、彼はなに?と聞き返した。私はちょっとだけ声をあげて、亡くなりましたよ、と答えた。管理人さんは何回もなに?なに?と聞き返し、私はそのたびに少しづつ声を大きくしながら答えたが管理人さんはどうしても聞き取れなかった。

 「亡くなったんですよ!」

結局私は大声で叫んでしまった。けど、どうしてだったんだろう。涙が出た。いきなりボロボロと涙が溢れてきた。

どうすればいいのか分からない顔をして突っ立っている管理人さんに背を向けて私は庭に入ってきた。どうすればいいのか分からないのはむしろこっちだよ。止まらない涙を拭きながら庭に座ってワンちゃんのソルの頭を撫でていた。ソルは私の顔を舐めてくれた。私の顔は涙とつばまみれになってしまった。

家に帰ってリビングの窓を開けた。首輪でロープに縛られてソルが力でロープを絶って家の窓枠に前足を上げた。

 ソルは笑っていた。

 

 再び冬が訪れ、冬休みを迎えた子供達が隣の家に帰ってきた。ピアノの音が聞こえてくる。今日はリストが。

 

 

 

作家:キム・シウ (김시우)

出典:

http://blog.naver.com/siukim11/221075897571