詳細は確認していないが、

某メジャーリーガー選手の通訳氏の事件をドラマ化するという話を聞いた


依存症者の起こした事件として、今注目や関心が集まっている社会問題ではあるが、


雑感として

・依存症を数字(視聴率)を取る為の道具にしてないか?

・依存症と犯罪行為を繋げてクローズアップすることで、依存症者=犯罪者予備軍(※)と言う構図を作ろうとしていないか?

※依存症者が起こすトラブルそのものや行き詰まった結果犯罪に走る可能性は否定する気はない

・制作意図はわからないが、ドラマと言うエンタメ(見世物)である以上、依存症理解や社会問題の解決から離れていきそうだ

等々思った



依存症者は周囲の人や社会に迷惑をかけることは多かったり、その度合いも大きいかもしれない


だが、回復を目指して、謙虚であろうとしたり、周囲への配慮を心がけたり、自身を振り返って自分を変化させようとしている依存症者も多い


果たしてこのドラマ化の様な動きはなんの為にするのか?

依存症者と社会との関係に利すると思ってするのか?


依存症回復の道に、周囲との関係性と言うものはとても大きな要素になる


一依存症者として言うと、とても偉そうに聞こえてしまうかもしれないが


依存症そのものは本人が回復・改善を目指して努力・行動していくしかなく

「自分の責任を果たしていく」事でしか依存症の回復や、周囲や社会への償いと言うのは出来ないと思っている


ここについて「責任の果たし方」を教えたり、責任を上手く取れない人に「行動のサポート」をする事はアリだと思うが

「本人の責任を周りが尻拭いする」「やるべき事そのものを代わってやってしまう」事はナシだ


また、依存症者を叩くことも良くない

叩かれて仕方のないような事をしてきているのは我々だし、叩きたくなるのも人情だと思う

直接的に依存症者に迷惑をかけられた人であれば尚更だろう


ただ、犯罪行為をしたのならそれは罪に問われて、然るべき罰を受け、償うべきではあるが

それと依存症者本人を叩く事は別の事だ


これは感情的に言っている事ではなく

依存症者は周囲との軋轢もまた依存をする為の理由(トリガー)にする


回復の道を進み始めている依存症者であれば、まだそれらの声を受け止め、回復に役立てられるかもしれないが

依存まっただなかにいる依存症者は、否定・批判の声が集まれば、更なる依存に向かうだろう



依存症者を叩きたくなる気持ちはとてもよく分かる、なぜなら

依存症者はしばしば、自分の問題を受け入れる迄は人を叩く側に回るからだ



だが、依存症者を叩いても問題は良くならない

依存症者は周囲に迷惑をかけるので、回復をした方が周囲の人や社会の為になると思うが


批難されれば悪化しがちと言う厄介な問題でもある


なので、依存症に関して周囲の人間は、距離(物理的、心理的、経済的)を取って見守って頂く事がお互いの為に良いのではないかと思う

その際、近しい人の場合は「具体的なサポートは出来ないこと(経済的支援など)もあるけど心では応援している」という事を伝えて距離を取るのが良いように思う


これらは自助会の中でも取られているスタンスだ

(我々は仲間だし、回復の為の支援はできる範囲でするけれども、お金は貸さないし、助けを求めない人には押し付けない、支配しない、本人が荒ぶってる時にはそっと見守る)


話を戻してまとめよう

ドラマ化(エンタメ化)で広く知られる事で、間違った理解(偏見)が広まる事は依存症者の回復を妨げる懸念しかない

そして回復に躓けばまた問題を起こす事になり

しかし周囲はそれを自己責任と呼ぶしかない


依存症の問題に関して、社会全体がよくなる方向を目指したいのであれば

深く理解しようとする人以外の生半可な知識はむしろ邪魔になりかねない

(生兵法は怪我のもと)


例えば

「あー、あれね、依存症ね!知ってる知ってる、〇〇したらいけないんでしょ?□□とかがいいんでしょ?」

「えー?なんでアレやってないの?回復する気ないんじゃない?」

「あいつ依存症じゃね?」

みたいな事が予見され過ぎて困る


依存症者の抱える問題に、共通項はあれども、問題はそれぞれの生活や今までの人生に密接に関わっていて、回復の道すじやタイミングは人それぞれだ


関係者ならともかく、そうでない人が攻撃的に関わる事は依存症回復を阻害し、ひいては犯罪や社会問題の再生産につながる


依存症者(が行った行為)を叩きたい気持ちがあったら

叩く事は次の同様の行為を生む原因になりかねないのだと言う事を知って欲しい

これは一依存症者としての切なる願いです



最後に、ドラマ化にあたって

マスメディアはいい事をしてるつもりなのだろうか?

それが人に害を為す可能性は考慮しているのだろうか?

それも含めて自己責任だろうか?

依存症者はある側面では社会的弱者でもある

それに対してさらに死体蹴りの様な事をしかねない自覚はあるだろうか?


相手が依存症者であればそれは構わない事ですか?


些か、感情的かつ攻撃的なメッセージになってしまったが

関係諸氏の目に留まる事を願っている


建設的な議論であれば私はいつでも応じる準備がある



「平和の国の島崎へ」と言うマンガがある

国際的テロ組織にハイジャック及び拉致された日本人少年が
兵士としての教育を受けて数々の作戦に関わった後
作戦中の隙をついて脱走、日本に帰国した後の生活を描く

同様の仲間(サバイバー)たちが住む「コロニー」で
日本人として平和に暮らすための練習をしていく

が、周囲はそれを許さず物語は展開していく

個人的にとても好きなマンガだ

その中の一幕



「友よ私に2つの力を与えてください

変えられないものごとを受け入れる勇気と

変えられるものごとを見つけられる賢さを」


と作中にある


これは「ニーバーの祈り」または「平安の祈り(The Serenity Prayer)」と呼ばれているもののアレンジだ


作中のキャラクターにフィットするようにアレンジされていると思う



多くの自助会では平安の祈りを皆で唱和する事が多く

慣れれば普通になるが

初めての仲間には一言目の「神さま」が心理的抵抗を生むだろうと思う


自助会が自分の回復と、仲間の回復、そしていまだ苦しむ仲間(新しい仲間)たちの回復の為にあるのならば

新しい仲間が繋がりやすい状況を整える工夫も必要なのではないかと思う


「平安の祈り」

「神さま 私たちにお与えください

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを

変えられるものを変えていく勇気を

そして 2つのものを見分ける賢さを」


当ブログの記事は全て私の個人的な経験や学習に基づく私見であり

医学的根拠や科学的根拠に乏しい記述も多くあります


自助会が依存症回復に役立つ理由


「依存症とは」で触れたが、依存症は単体の依存物質だけの問題ではない

個々人の持つ要素に、他者や社会との関係の中で(当人にとっての)ストレスがかかり、ストレス処理の為にとった行動が依存物質っとくっつき、病的なレベルに進行してしまったのだ

(他者や社会のせいであると言う事では無い。依存行動に走るのは紛れもなく依存症者当人なのだから)



依存そのものは悪いものではない

個々人にとってはある意味、その依存物質がなければその時はストレス処理ができなかったのかもしれない

依存が大きな問題になるまでは、自分を守ってくれれた部分もあったのかもしれない



そして依存物質だけを取り除いても

依存に走らざるを得なかった状況がなにも変わってないとしたら?



溜まったストレスを逃がす事ができず更に苦しむか、他の依存物質に走るか(後々病的になる可能性がある)、「スリップ」(問題の依存物質に再度手を出してしまう事)を引き起こす可能性が非常に高い



ミーティングに意欲を持って参加し続ければいずれ依存行動は止まる

だが再び舞い戻らない為には少なからず自分を変えていく事が重要で「12ステップ」はその為のツールだ

自助会につながる事で、ミーティングと12ステップに取り組む事ができる



・もう1つ、「フェローシップ」にも触れておきたい

自助会で大切な3要素とされているものがある(自助会や会場にもよる)


「ミーティング」

「スポンサーシップ(12ステップ)

「フェローシップ」


科学的医学的に因果関係や数値が明確になっていないものも多いが

多くの先人が経験則で証明してきてくれている


「ミーティング」は依存を止める事に効果がある

「スポンサーシップ(12ステップ)」は自分を少しずつ変化させ依存の原因になるものを減らす効果がある


「フェローシップ」は自助会に通う仲間たちとの交流の事だ

自助会では無名性(アノニミティ)を大事にする為、ニックネームを名乗り、個人情報や外部の特定情報は伏せて話をする

その為しがらみを外した所での関係性が築ける


また、依存症者が自助会につながる時は家庭内や社会的なトラブルの中にいる事が多い

周りの人たちからは依存症者の思考や行動は理解し難いものも多い為、厳しい目で見られる事が多い

自助会に通っている仲間は皆その依存物質とそれに伴う苦しみを経験済みだ

だから他の人よりは理解度が高い


善し悪しや改善すべき事であるかは別として

依存症者としては言いにくい事も言葉に出す事ができる


周りの人に言ったら波風を立ててしまう事も

「今、こう思っている」事として話す事ができる


その「仲間たち」との交流・つながりが「フェローシップ」である

(やめたい、回復したい仲間以外は自助会から離れるので、自助会の仲間同士組んで悪さをする様な事は基本的にない)



狭義ではミーティング後の食事やお茶を「フェローシップ」と呼ぶ事もあり

「今日フェロー行く?」等と使われたり

イベント事で「カラオケフェロー」「お花見フェロー」等もある

(もちろん強制ではないし、そもそもお茶や企画などを行っていない所も多い)


※自助会は会場や参加者によって雰囲気がかなり変わる

都心であれば会場がたくさんあり、自分に合う会場も見つけやすい

(首都圏のギャンブル依存症の自助会はここ10数年で2~3倍に会場数が増えている、参加者も多く、回復への熱量が強い。曜日も時間も選択肢があり自助会に繋がりやすい。一方で依存症者が増えて来ている可能性もあり、その傾向は個人の問題とは別に考える意味があると思っている)


居住地に自助会が少ない場合はオンラインと言う方法も検討の余地はあるだろう

(リアル会場でのミーティングにある程度参加してからの方が良いと思うが...)