一月の風は冷たい。十二月のそれとは比べ物にならないくらい。昨年俺は晴れて大学を四年半の浪費ののちに中退し、フリーターになった。あまりの何者でもなさにほんの少しの不安と、正体不明の安心感を覚えている。あと有り余る謎の焦燥感。

 こういったことやこういってないことを書こうと思っていると、バイト先の社員さんからお叱りのLINEが来た。あまりにも興を削がれる。俺の中のもりやすバンバンビガロが「バイト、辞めまーす!」といってジャグリングしながらバイトを辞め出している。

 

 

 俺は正社員というものになったことがないので良くわからないが、なぜたかだかバイトなのに、最低賃金なのに、真面目にやってきたのに、どうしてこんなに大きくならないのだろうか。赤井さん秘訣を教えて。真面目にやったところで要領が悪ければポンコツだし、たくさん食べなければ大きくなれない。僕がバイトの中で一番年上だから厳しくするんですか?一番見込みがあるから厳しいんですか?え、なんで最低賃金なんですか?まじでやりがい搾取とかもう流行らんで。愚痴も悪態も文句も流行らん。品がないので。悪口は許してもらってなんぼってくらいでやろや。嫌われる覚悟も迷惑の被り合いもできんならさ。

 

 こういう出勤を押していない時間にメンタルに出勤要請かけてくる感じが社会常識だとするなら、本当にやりたくないことなんてやりたくないと思ってしまう。そんなに甘くなくて、そんなこと不可能でも、やっぱり思ってしまう。泣きそうになりながらアスファルトを睨みつけてなんとか心身ともに帰宅したのに、こんな奇襲が罷り通るならそれは心身を賭せるものじゃないと俺は無理だよ。ごめんこんな年になっても泣き言ばかり言わないでってね。

 

 本当はいろんなことが書きたい。言いたい。言いたいことは山ほど残ってるのに、心が疲れたりしている。言葉を紡ぐために越えなければならないささやかな丘が越えられない。その体力がない。せっかくフリーターをしているのに、本当に意味のない日々をまた過ごすみたい。恥ずかしいね。もう嫌にもなるよね。

 

 ダダダのライブでとても悲しかったこと。大きなフェスは音楽とちょっと距離ができたりしちゃうこと。それでもでかいステージで動物的な暮らしが聴こえてきたら泣きそうになるような喜びもあること。CRYAMYが辛くてSIX LOUNGEがおままごとに見えるくらいだったライブのこと。それでもage factoryはとてつもなかったこと。Hue'sはいつも期待を上回ってくるけれど、年を経てその良さがもっと分かったこと。PK Shampooが一番好きなこと。「大阪でもワンマンしてほしいです!」って言った俺に「中々ね、売れ行きとかもあるしね、悔しいけど」って苦い顔してたカワノさんは海外でどえらいものを撮って帰ってきて日比谷野音でワンマンだって。バイト先の有線はいつもなんやよくわからん安いレゲエを流しているのだけれど、店長の気まぐれでヒットソング集的なのにになった時にCRYAMYが流れてきた。あなたのことを好きな女の子の友達の何たらかんたらに殴られてとかいう、俺は繁華街のラーメン屋で流れるそれがなんか本当に侮辱のように感じられて、辛くて苦しくて悲しくて新譜はあまり聴けていなかったり、その他色々の数年前の騒動からあまり追わなくなったりしていたのに、CRYAMYの骨がわからないでいたのに、旧友を侮辱されたような、勝手に旧友としている自分に落胆するような、負い目のような変な感情になりながら、バカが汚していったテーブルを拭き上げたりしていた。

 許せないなら愛すなよとか、愛せないなら離れろよとか、立派なことはあんまりわからないけど、もっともらしいことだけ言って当事者にならないなら、間違ってでもいいから誰かのあなたにならなければと思う。でもそれって本当に苦しいことなんだぜ〜?本当馬鹿馬鹿しいよ。

 

 俺は中途半端に大人になって、どこかまだまだ子供で、言いたいこともまとめずに、忘れないようにメモ書きで、誰かの呟きをバカにして、分かったふうじゃねよってバカにして、正しさに憧れて、正しさの鋭さを憎んで羨んで、何が何かもわからないまま、一丁前にたくさん嫌いで、少しだけ大好きで、でも今までよりは些細に好きになれたりもしながら、冗長な誰も読まないことをダラダラと書けたりしちゃうくらいには痛いまま、懸命に、懸命であろうと、懸命でありたいと、生きています。幸先は今の日本ぐらい悪いですが、昼下がりのケーキとコーヒーじゃ幸せにはなれませんが、誰かにとってのそれを俺のものとして見つけていけたら、最後には望む形であれなかれ、どうにかなっていくのだと信じています。

 

 最近都度座標を見失っていると感じるんです。社員さん、社会人の友人、学生の後輩、親、祖父母、従兄弟、旧友、見知らぬSNSの誰かやあなた。それらのすべての人に見られて、見て、存在する僕らというものは確かにあります。でも本当はそんなものは当てにならないという瞬間が生きるという行為にはあって。自己は恐らく本当に捉えるということは中々難いまま、無二に打たれた印のように信じるということで成り立つことも多いんじゃないかと、ちょっと思ったりして。ね。それじゃ。