感覚も感情もかなり捨ててきた。体に残った疲労の蓄積と割に合わない収入と身の丈に合った生活が幾ばくか残っている。それはとても人間的な営みで、底抜けに寂しい。ふと大きなやらかしだったり不調だったりが重なって、強烈に孤独になる時がある。その強烈な孤独は砂漠で、草原で、海原で、宇宙で、いつも少し悲しくてかなり苦しい。小島や小惑星を見つけてやれやれと休む時、地平線の先に大都市の明かりが見え、はるか遠くから風に乗って人々の音楽が聴こえてくる。そう言った時僕はそこはかとなく寂しくなる。それは強烈な実感として(幻想やそれの類との見分けはつかないのだが)孤独になる。寂しいか悲しいか苦しい。ずっと自業自得だから、ずっと独りだ。差し伸べてくれた手やそばにいる影をもってして、姑息な僕はいつまでも独りだ。

 ひどく不健全だ。ひどく不完全だからリハビリをしなくてはならない。寂しいか悲しいか苦しいは当面付き合っていかなければならない。ならそのまま小惑星の小岩を削れ。草原の小石を掴め。放り投げてでも書き記してでも、孤独にはならないように。空虚な独りでいないように。まずは己の形を強く持たないと。感情なんかも。忘れないようにしないと。生きやすくたってなんだっていうんだ。

 瞬間の絶望を、寂寞を、待ち受ける幸福でもって塗りつぶす。そういった意味での伴侶”パートナー”というものが確かに存在する。帰路の吹き荒ぶ風が懐に潜り込んできた時に心が無から虚に一転するあの絶望をまやかしやバグの一種だと思い込む、それどころか心霊現象かのように存在も疑い、認識の誤り、感覚の誤解であるかのようにまでしてしまう。

そういった共に居ることから大幅に逸れた所にも伴侶のもたらす幸福というものは副次的に多く存在する。全く好きではない類の菓子が目に入ったり、好まない色のハンカチを手に取ることもそういった類だろう。共に居るから共に在るになっていくとき、その幸福は最大値を大幅に更新する。

 むしろそれを求めて伴侶を探すこともあれば、気付かぬうちにそれに辿り着くこともある。人と人との関係値はこういった具合に関数的に幸福を増やし、それらをプラスだけに収束させていく行為を幸せになる努力とも言えるのではないだろうか。もちろんたった1人でして幸福を掴み取る猛者が居ることももちろん知っているが。あいにく感覚として私はわかることができない。コツコツと積み上げていく加算的な幸福なのだろうか、マイナスに振れる関係に怯えるのだろうか、そういった類の幸福に強く感嘆すると同時に、その途方の無さに慄く。(こと私事とした時の偏った見方なのかとも思うが。)

 

 

 

 さて、私たちには存在証明や意義なんてものが少なからず必要になる。生きてゆくためのポリシーと言い替えてもいい。もちろんそれはモノ、コト、にも当てはまる。今どうあるか。明日どうあるか。自分はどこから来た、どこにいてどこにゆくのか。何を思い、何を言うのか。

 俺は今を今のままとして一生懸命に捉えることを命題としてきたように思う。そしてそれは前述の幸福とはまるで相性の悪いものなのではと思ってしまったわけだ。大通りの交差点で喰らった膨大な寂寞は家で待つあの子をもってして薄めてしまっていいものだろうかと。ただ認識とはいつだって主観を通してしかなされない。幸福なんかのレンズも、経験や偏見や知識やらの数多あるレンズの一つだろうと言ってしまえばそれまでだ。ただそんなレンズの一つに気づいてしまった。ただそれだけのことなんですが。

 捉えるということは至極簡単で、誤答がないぶん難しい。あなたが満足するそれがあればいいのでは?なんて実用的なこと言われても、そういうことじゃなくて!となってしまう。

 幸せであることに全力じゃない奴はださい。そんなやつらの作品は全部フェイクだ!という友人がいる。それには深く頷いていたのだが、幸福の最中で捉えられなくなる今があるならきっと幸福から逃げてまで捉えたい何かもあるんだろうなとなってしまう。

まぁきっとそれらを含んだまま幸福になって、それらを含んだまま捉えることから逃げんなよってことなんすけどね。最近は話したり書いたりしてる側からセルフ論破をかましてしまう。窮屈な脳みそだと常々思う。

 あいつとは冬の終わりの寒さを、あいつとは夏になる前のぬるい風を感じる。意地の悪い程の湿った暑さは寂寞も飽和も幻のように輪郭を溶かす。夏に出会った誰かは養生テープみたいに簡単に切り貼りできて跡が残らないように綺麗に剥せる。夏の温度は僕らの様々な粘着をジリジリと溶かし、冬に残った白いカスの正体を俺たちは思い出すことも出来ない。


 こないだ入った飲み屋で「人にはそれぞれの地獄があると思うんよ!」って叫んでいたタンクトップの若い男は理解のありそうな眼鏡の友人の肩をガッと掴んで僕を画角の隅に背景として捉えたままツー(スリー)ショットを撮った。紅潮した顔に付いた2つの眼は宿らせた意思に反してあまりにも情けなく揺らぐ。君よ、その背景には地獄を映すが相応しかったかい。そこに地獄はちゃんと映ったかい。

 一月の風は冷たい。十二月のそれとは比べ物にならないくらい。昨年俺は晴れて大学を四年半の浪費ののちに中退し、フリーターになった。あまりの何者でもなさにほんの少しの不安と、正体不明の安心感を覚えている。あと有り余る謎の焦燥感。

 こういったことやこういってないことを書こうと思っていると、バイト先の社員さんからお叱りのLINEが来た。あまりにも興を削がれる。俺の中のもりやすバンバンビガロが「バイト、辞めまーす!」といってジャグリングしながらバイトを辞め出している。

 

 

 俺は正社員というものになったことがないので良くわからないが、なぜたかだかバイトなのに、最低賃金なのに、真面目にやってきたのに、どうしてこんなに大きくならないのだろうか。赤井さん秘訣を教えて。真面目にやったところで要領が悪ければポンコツだし、たくさん食べなければ大きくなれない。僕がバイトの中で一番年上だから厳しくするんですか?一番見込みがあるから厳しいんですか?え、なんで最低賃金なんですか?まじでやりがい搾取とかもう流行らんで。愚痴も悪態も文句も流行らん。品がないので。悪口は許してもらってなんぼってくらいでやろや。嫌われる覚悟も迷惑の被り合いもできんならさ。

 

 こういう出勤を押していない時間にメンタルに出勤要請かけてくる感じが社会常識だとするなら、本当にやりたくないことなんてやりたくないと思ってしまう。そんなに甘くなくて、そんなこと不可能でも、やっぱり思ってしまう。泣きそうになりながらアスファルトを睨みつけてなんとか心身ともに帰宅したのに、こんな奇襲が罷り通るならそれは心身を賭せるものじゃないと俺は無理だよ。ごめんこんな年になっても泣き言ばかり言わないでってね。

 

 本当はいろんなことが書きたい。言いたい。言いたいことは山ほど残ってるのに、心が疲れたりしている。言葉を紡ぐために越えなければならないささやかな丘が越えられない。その体力がない。せっかくフリーターをしているのに、本当に意味のない日々をまた過ごすみたい。恥ずかしいね。もう嫌にもなるよね。

 

 ダダダのライブでとても悲しかったこと。大きなフェスは音楽とちょっと距離ができたりしちゃうこと。それでもでかいステージで動物的な暮らしが聴こえてきたら泣きそうになるような喜びもあること。CRYAMYが辛くてSIX LOUNGEがおままごとに見えるくらいだったライブのこと。それでもage factoryはとてつもなかったこと。Hue'sはいつも期待を上回ってくるけれど、年を経てその良さがもっと分かったこと。PK Shampooが一番好きなこと。「大阪でもワンマンしてほしいです!」って言った俺に「中々ね、売れ行きとかもあるしね、悔しいけど」って苦い顔してたカワノさんは海外でどえらいものを撮って帰ってきて日比谷野音でワンマンだって。バイト先の有線はいつもなんやよくわからん安いレゲエを流しているのだけれど、店長の気まぐれでヒットソング集的なのにになった時にCRYAMYが流れてきた。あなたのことを好きな女の子の友達の何たらかんたらに殴られてとかいう、俺は繁華街のラーメン屋で流れるそれがなんか本当に侮辱のように感じられて、辛くて苦しくて悲しくて新譜はあまり聴けていなかったり、その他色々の数年前の騒動からあまり追わなくなったりしていたのに、CRYAMYの骨がわからないでいたのに、旧友を侮辱されたような、勝手に旧友としている自分に落胆するような、負い目のような変な感情になりながら、バカが汚していったテーブルを拭き上げたりしていた。

 許せないなら愛すなよとか、愛せないなら離れろよとか、立派なことはあんまりわからないけど、もっともらしいことだけ言って当事者にならないなら、間違ってでもいいから誰かのあなたにならなければと思う。でもそれって本当に苦しいことなんだぜ〜?本当馬鹿馬鹿しいよ。

 

 俺は中途半端に大人になって、どこかまだまだ子供で、言いたいこともまとめずに、忘れないようにメモ書きで、誰かの呟きをバカにして、分かったふうじゃねよってバカにして、正しさに憧れて、正しさの鋭さを憎んで羨んで、何が何かもわからないまま、一丁前にたくさん嫌いで、少しだけ大好きで、でも今までよりは些細に好きになれたりもしながら、冗長な誰も読まないことをダラダラと書けたりしちゃうくらいには痛いまま、懸命に、懸命であろうと、懸命でありたいと、生きています。幸先は今の日本ぐらい悪いですが、昼下がりのケーキとコーヒーじゃ幸せにはなれませんが、誰かにとってのそれを俺のものとして見つけていけたら、最後には望む形であれなかれ、どうにかなっていくのだと信じています。

 

 最近都度座標を見失っていると感じるんです。社員さん、社会人の友人、学生の後輩、親、祖父母、従兄弟、旧友、見知らぬSNSの誰かやあなた。それらのすべての人に見られて、見て、存在する僕らというものは確かにあります。でも本当はそんなものは当てにならないという瞬間が生きるという行為にはあって。自己は恐らく本当に捉えるということは中々難いまま、無二に打たれた印のように信じるということで成り立つことも多いんじゃないかと、ちょっと思ったりして。ね。それじゃ。

 

 

朝は少し夕暮れに似ている。夜は突き放すように暗くて、ひた隠すように暗くて。涙にならない悲しみは夜に溶けたかのように朝の日差しの陰に、赤シートを被せたかのように。

 

 

君が好きだと言っていたものの美しさにまるで魔法にかけられたようにみたいな

すると君は多分別にそんなに好きじゃなかったとか言うだろうけど、そんな程度な嘘ならいつまでだってついていてよね

 

 

本当のことだけ言って。でも嘘もたまについて。

 

 

都会って寒いとかいうけど、それは暖房が効いた部屋にずっといたからで、ショウウィンドウの中が暖かそうだからで、つまり孤独にとって思い出はヒートテックみたいなもんってことなのかい

 

思った時が最も輝く。ピカッと。あとはその残像を写す作業。フィルムのように。

 

 

アイワナビーユアボーイフレンズ 君がいてくれるならステキ