織田信雄(1558–1630)は、織田信長の次男として生まれながら、歴史の表舞台で輝くことは少なかった。兄・信忠が本能寺の変で倒れた後、織田家の継承者としての立場を得るものの、その評価は「凡庸」「暗愚」という言葉に集約されがちだ。

しかし、本当に彼はただの無能な武将だったのだろうか。

 

小牧・長久手の戦い——秀吉に抗った唯一の織田一族

1584年、信雄は徳川家康と結び、羽柴秀吉と対峙する。これが小牧・長久手の戦いだ。結果的に信雄は秀吉と単独講和し、家康を置き去りにしたことで批判される。だが、秀吉の圧倒的な力の前で、よく戦ったとも言える。この戦いがなければ、家康の後の天下取りもなかったかもしれない。

 

“生き残る”という才能

戦国時代、多くの大名が滅亡していく中で、信雄は波乱万丈ながらも天寿を全うした。彼の「優柔不断」とされる性格は、裏を返せば「柔軟さ」であり、時代の激流を泳ぎ切る術だったのかもしれない。

父・信長のようなカリスマ性はなかった。兄・信忠のような期待もされなかった。だが、織田信雄は織田家の血を後世に残した。その事実だけでも、彼を単なる「愚将」と切り捨てることはできないだろう。