約1年前

私は京都のコミニュケーションに戸惑いまくっていた。。。



京都は全く私にとって範疇になかった居住地で
コミニュケーションがちょっと難しい
京都の人は特殊と聞いてはいて

どんなもんかい???

っと全く想像もつかなかったが、


なーんかモヤモヤのモヤリティー
何か残る違和感
何か感じる乗せられる感


本心は何?
なぜ直接言わない?
何が言いたいの?

の連続


こんなんで何が伝わるんか?


私とは正反対のコミニュケーションスタイル


で1年後、↑このブログを読み返して


あらっ?!
私はこんな風に思ってたんだ!?
と意外な気持ちに。


どうやら知らぬ間に慣れてしまったようだ。

今はここまでの違和感は感じなくなってしまった。笑



周りの人と過ごしてきた時間の長さや
お互いの理解度の高まり
お互いの様子がわかってきたからだろう


この人はこう
京都ではこう
関西ではこう
沖縄ではこう
日本ではこう
だってこうなんだもん

と、そうなった背景があるから。




ちゃんと言いたい事を言って欲しい!
本音を言って欲しい!
って相手にぶつけたとしても

本音を言うことが正しいわけではない
私の自己満足をぶつけるだけになってしまう


お互いが気持ち良く過ごせるコミニュケーションがその間柄で正しいコミニュケーションなのだと思う



最近思うのが、
社交辞令について

私はこの通り
社交辞令ってなんなんだよ?
その気がないなら言うなよ?
本音と言葉が違うのって気持ち悪い!
思想の持ち主であった


が、社交辞令って
まだ関係性が構築していない間柄で
相手がそのときにできるベストな言葉
そのときの状況がベストに運ぶための最大限に思いやりを持った言葉
なのではないかな?と思うようになった


社交辞令は関係性がまだ構築されてない事の表れ
当たり障りのない前向きな言葉で
今後の関係性を紡いでいく言葉
だと思う。





関係性を築きたい人には
無意識にオープンマインドで接する私

オープンマインドにつられて心のウチをシェアする人もいる。
秘密主義、社交辞令で乗り切る人もいる。


心を開く角度も濃度も
人それぞれ
私がとやかく言うことではない


相性や波長ってのはあるからどうしょもない

最初から合ったら、そりゃ楽しいけど
意外とその後はあれ?みたいな事もある

私のような元気キャラはサービス精神満点なので
波長の合う同じキャラもそうした演出ができてしまう
時間が経って演出が落ち着いて
無理なく心地良くいくこともあれば
違う面が見えて演出波長だった事もあるだろう
お互いにね


最初は合わなくとも徐々に徐々に変わっていく
お互いの心の距離や信頼感を感じていくのもいい



私は頑なな人の心のウチを垣間見た瞬間
私に向けた心からの笑顔を見た瞬間
ポロっと漏らした本音の言葉
に出会った瞬間に本気でときめいてしまう

だからこそ、人の心のウチを見てみたい
まっコレぞ、ざっ自己満足口笛



沖縄時代は若かったし、そうはいかなかった
なんで?なんなのー?
と沖縄の悪口を移住3年経っても
ムキになって朝まで語り合う。
という元気さと傲慢さが大爆発



心理を数年前に学んで
アラフォーになって
本当によかっな!と思う理由に

自分が正しいという謎の傲慢さなくなったこと
表面的な物の見方をしなくなったこと
物事を奥深くまで観れるようになったこと
経験により多角的に理解ができるようになったこと
若い頃の青さ痛さをやれやれねーと思えるようになったこと
必死さがなくなり、自分のちょうど良さがわかってきたこと


デフォルトが激しいので
ムキーーーームカムカとなることもあるけれど
まっ良いでしょう



様々な場所で様々な人と接して
葛藤して
挫折して
酷い目に遭いながらも
経験することに勇気と勢いをもって
飛び込んでいってよかったニヤリチョキ