若き頃、30歳前、AVIOの派遣社員で仕事していた
その頃、徹夜でAVIOに寝泊り、自宅に帰らず賀多かった。
問題視されたシステム開発、薬品会社の石狩、薬品物流センターバレオの仕事
建物、設備は、全て大林組が設置してAVIOがやる話だった。
発注経由は以下だった
薬品物流センター バレオ→大林組→日本電気NEC→AVIO→シーシージ 
途中から日本電気から大場組と直接取引良い許可を得たらしい
僕はこのシステム開発は途中から参加
大林組と直接取引になったら、設備ハードも安く、ソフトも安くで値引きで
赤字だったらしい。
最後には、薬品物センターバレオのシステム開発が落ち着いたら
もう、二度と大場組とは、取引しないがAVIOの判断だった。

派遣社員でAVIOで働く自分、、、そこまで聞いて良い?
名刺もAVIOの名刺である。
但し、AVIOの正社員とは、給料が全く違う、30%以下がである。
同じ仕事量でAVIO正社員が30万円貰っていたら、僕の給料は、10万円
そんな時代だった。





コピペだけだら楽だけど。。。パソコンが調子悪いが悪いので
iPadで入力、、、、結構、大変です。


北海道に行った時にTAXIの運転手が世間話で話してくれた。
ラーメンの話を聞いた。
以下に列挙する


ラーメン発祥の札幌の「竹家食堂」の直系店

数年前から、国道2号線の芦屋から灘のこの辺りまでラーメン屋さんが林立しはじめ、今やすっかりラーメン街道になっている。その中でこのお店は古株の部類と思われる。「思われる」などと頼んない書き方をした理由は、実は私20数年前に5年程この近くに住んでいたことがあるんですけど当時からこのお店があったかどうかわからへんのです、傍にある「ナダシン」さんなら何回も利用してたから知ってるねんけど。ま、当時は今ほどラーメンブームじゃなっかたし、私もうら若き乙女で、ラーメン屋に興味なかったからしゃあないね。
でまあ、このお店の存在を知ってから「そのうちに行こ」なんて思ってたら、夫の転勤で長年住み慣れた神戸を離れることに・・・。今回お盆の帰省中にやっと訪問できました。
味噌ラーメン+焼き飯のBセット(850円)を注文。
お店のお兄さんが中華鍋をふる。あっという間に目の前に盛られた焼き飯は値段から予想してたよりずっと多い。この、焼き飯、中華料理屋の炒飯とは見た目も味も違う醤油味。
続いて味噌ラーメンが置かれた。タップリの青葱、真ん中に盛られたもやし。「う~ん、これこれ」。長年親しんだこの関西風トッピングが嬉しい。あと、焼き豚とメンマ。スープは見た目ラーメンスープというよりは味噌汁のようで、具のワカメとマッチしてる。味はあさっりとしていて、くせもなく食べやすい。焼き飯との相性も良く、食べていて嫌にならない。さすがに完食とまではいかなかったけど、普段と比べるとかなりたくさん食べました。(残りは夫が完食)

それにしても、安いなぁ。近頃のラーメン屋さんは「食券受け取るだけが仕事」みたいな人がおったりして、妙に従業員が多い。そのくせ見てたら「段取り悪ぅ」と思うことがようあるねんけど、このお店なんか小さいとはいえ二人でやってはったもんなぁ。おにーさんとおばちゃんの連携が見事で見てて飽きひんかった。途中一回、店主風の年配の方が奥から味噌樽もって出てきはったから、3人でやってはるんかな?
人件費節約が安さにつながってるんかも

札幌ラーメン 竹家食堂

 札幌ラーメンのルーツは大正11年にさかのぼる。
そのとき北大正門前に竹屋食堂ができた。
創業者は大久昌治(おおひさしょうじ)氏。仙台出身の元警察官であった。
ある日、室蘭の船員の大道俊二さんが、中国人の調理人を竹屋食堂に連れてきた。
彼は王文彩といった。大正9年尼港事件で、ニコライエフスク港から樺太経由で
知り合いの大道さんを頼ってきたらしい。札幌に王さんの働く店はないかと連れてきたのだった。

王文彩さんの作る料理は評判が良く、多くの中国人留学生は食事におしかけた。
当時の中国人留学生たちは裕福な家庭の子弟だったので、またたくまに
竹屋食堂は発展した。
そのとき、台湾の大学から北大に移ってきた医学部教授のちの北大総長の
今裕(こんゆたか)医学博士も、本格的中華料理の竹屋食堂のファンになり、
博士の提案により、支那料理竹屋に店の名も変えた。
大学病院の医師らも常連であったという。

中国人留学生に人気のあったのは「肉絲麺(ロウスーミェン)」であった。
これは油通しした細切りの肉や筍や葱をのせた麺であった。
竹屋食堂の麺は手で引っ張る手打ちラーメンであったが、客が増えたため製麺機にかえた。
王文彩さんは2年後小樽で自営するため竹屋食堂をやめ、
王さんと同じ山東省出身の、李宏業さん、つづいて
李宏業さんと義兄弟の縁を結んだ李絵堂さんが神戸からやってきた。
実質的に竹屋食堂のラーメンの基礎を築いたのが、この二人の料理人であった。
しかし、当時の竹屋のメニューの中で、ラーメンは主力メニューではなかった。

肉絲麺は中国人留学生には人気があったが、当時の日本人の口には
油が強すぎてあわなかった。
そこで、なんとか日本人の口に合わないかと、おかみさん(タツさん)は李宏業さんと李絵堂さんに相談して、
焼き豚、シナチク、葱を入れた今日のラーメンができたのは大正15年の夏。
しかし、この料理の呼び名はまだなくて、日本人客の多くは「チャンそば」、「チャンコロそば」
と注文していた。おかみさんは大切な留学生の気分をこわしてはいけないと思い、
何かよい呼び名を付けようとみんなで相談した。
糸切りで柳のイメージだから「柳麺(リュウメン)」がよいということになったが、
日本人には発音が難しい。
おかみさんはかつて王文彩さんが料理ができあがったとき調理場から「好了(ハオラー)」
と言っていたことを思いだし、好了の了(ラー)をとって、ラーメンに
したらどうかと提案した。
その瞬間にラーメンの名が生まれたというのが定説だ。

竹屋のおかみさんは孫たちに自慢したらしく、1人の孫が北海道新聞に
祖母がラーメンを命名したいきさつを投稿している。
しかし、当時の本州の事情を考えると、横浜南京街では焼き豚、シナチク、葱を入れた
今日のラーメンの原型ができていたし、浅草来々軒でも同様のメニューがあった という。
したがって、小菅桂子氏は全国各地でラーメンは生まれるべくして生まれたもので、
竹屋のラーメンは命名のいきさつがたまたま記録に残っていたものであったろうと 推察している。
おそらく歴史によく見られるように、何かの発明はそれを生み出す時代背景があり、
特定の少数の人間のみが考案することができたというのよりは、多くの人のアイデア
があちこちで小さな花を開いて、口コミで良いアイデアは他の人のヒントになり、
ほとんど同時にあちこちで似たようなものが作られてきたのだろう。
庶民に親しまれる食べ物ほど、そういったものであろうと思う。

参考文献 小菅桂子:にっぽんラーメン物語、講談社  奥山忠政:文化麺類学・ラーメン篇、明石書店



王文彩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動検索に移動
王 文彩(おう ぶんさい、ワン・ウェンツァイ、 ? - 1932年)は、日本の料理人。札幌ラーメンの創始者として知られる。
目次
1 人物
2 脚注
3 参考文献
4 外部リンク
人物[編集]
中国の山東省出身とされている[1]。生年不詳である。中国およびシベリアのニコラエフスクにて、北京料理の料理人として生活していたが、尼港事件の戦火を避けて来日した[2][3][4]。
1922年(大正11年)に、知人の紹介で札幌市の北海道大学近くにあった『竹家和食店』を訪れ、店主の大久昌治・タツ夫妻と意気投合する[2][3]。やがて『竹家』は中国風卓子料理に献立を改め、王を料理長とする中国料理店『竹家』が誕生する[2][5]。従来の中国料理の他に、中国のラーメンの範疇にはいる『肉絲麺』をメニューにする[2][5]。当初は中国人留学生を主な客としていた『竹家』は、その後日本人の客も増えて繁盛する[6][7]。『ラーメン』の言い方の原点が、この王が活躍した『竹家』であったとの情報もある[8]。子供に優しかった半面、仕事に対してはとても厳しく、厨房には中国人以外は決して入れさせなかった(当時子供だった大久夫妻の長男だけは例外だったという)[9]。

その後、王は、『竹家』を去る[6][10]。王が去った『竹家』では、新しい中国人料理人の李宏業と李絵堂が、より日本人にあったラーメンを提供するようになる[11][12]。『竹家』を去った王は、食堂の手伝いなどをしていたが、1932年(昭和7年)、札幌の銭湯の2階で亡くなる[6][8]。
『竹家』は、1943年に廃業する[6]。しかし、『竹家』で王らが腕をふるって札幌に定着させたラーメンは、『札幌ラーメン』として、今でも受け継がれることとなる。