たった一言を昔、古本屋で聞いた。
占いって何だろう?
心理学と同じだ。
タロットだと絵柄のイメージで占い
易占いは、色々なマトリクス
産まれた日から自分の名前
その組み合わせで占う
囲碁は、易の占い道具だった。
これは、僕の推測です。
数学を極める。
それも囲碁の世界に没頭するだろう。
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札幌大学総合論叢 第 40 号(2015 年 10 月)
〈論文〉
はじめに
呉清源打込み十番碁と読売新聞
呉清源打込み十番碁と読売新聞
昨2014年11月30日の未明,呉清源九段が亡くなった。享年百歳だった。呉清源
は昭和の碁会を代表するのみならず,日本の囲碁史の中でも屈指の名手として評価が高い
棋士である。技術的には「新布石」によってとりわけ序盤の戦略的発想に革新をもたらし,
社会的には度重なる「打込み十番碁」における圧倒的な戦績によって人気を博した。本論
では,この打込み十番碁を中心に,読売新聞が大正・昭和の囲碁界に果たした役割につい
て考察すると同時に,囲碁欄の充実が新聞の発行部数拡大の重要な要素の一つであったこ
とを跡づけていきたい。
新聞囲碁欄の黎明期
そもそも囲碁の棋譜が新聞に掲載されるようになったのは1878年(明治11年)4 月1日のことで,3月29日に行われた中川亀三郎・古橋杵三郎の対局が『郵便報知』に 載ったのがその嚆矢とされる。翌1879年4月には,日本初の囲碁雑誌『囲棋新報』(月 刊)が方円社の機関誌として創刊された。この『囲棋新報』のスタイルが,現在の新聞囲 碁欄に踏襲されているという。
さて,初めて新聞に囲碁欄が創設されたのは,1896年8月7日のことである。『時 事新報』に「碁の栞」という欄が新設され,第 1 局目には安井算英六段・田村保寿四段戦
(田村先,中押勝ち)の対局評が掲載された 1)。 その後,本因坊,方円社,裨聖会といった組織がそれぞれ独自に新聞社と棋譜掲載の契
約を交わしていたのだが,1924年7月17日,三派が合同して日本棋院が創設(牧野 伸顕総裁)されると,新聞社への棋譜提供は日本棋院が抽選して提供する方式に改められ ることになった。このやり方に不満を持った報知新聞社が,雁金準一,鈴木為次郎,加藤信, 高部道平(以上六段),小野田千代太郎五段の5棋士と独自の棋戦を行う契約を結ぶ。しかし, この5名は日本棋院を除名されたため,同年10月8日,棋正社を創設するに至った。こ
田 中 恒 寿
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田 中 恒 寿
の結果,日本棋院の大手合は朝日新聞,棋正社の手合は報知新聞,日本棋院の新進打切碁
戦は毎日新聞の前身である東京日日新聞,といった棲み分けがなされるようになる。
さて,この棋正社の動きに目を付けたのが読売新聞社の社長に就任したばかりの正力松
太郎だった。
読売新聞と囲碁
今日では朝日,毎日と並んで三大新聞の一つに数えられる読売だが,正力松太郎が社長
に就任した1924年当時は,一日平均の発行部数5万部程度の弱小新聞でしかなかった。
一方の朝日,毎日(当時は東京日日新聞と大阪毎日新聞)は100万部を超えている。と
ころが正力社長の経営手腕のおかげで,以来読売は右肩上がりに部数を伸ばし,約半世紀
後(1977年)には朝日を抜いて発行部数日本一となるのだが,正力の興行師的アイデ
アの数々を『読売王国』の中で上之郷利昭は次のように列挙している。
両国の国技館の納涼博覧会をはじめ,正力の紙面の改良は,ラジオ版に始まって日曜
夕刊など,いずれも成功してさらに続いた。
大正十五年ごろからは,釣りの記事,競馬の予想,麻雀欄など,折り折りの大衆人気
の焦点を機敏につかんではこれを紙面に盛り込んだ。一方には文芸欄や婦人欄の特色を
ますます充実するとともに,科学欄・農業欄なども試みた。多数の漫画家を集めて漫画
ページをつくり少年読者をもって家庭に楔を打ち込み,引き続きこれは独立の色刷り少
年新聞として月三回の付録に発展させ,少年たちの人気を集めた。
とくにラジオ欄は全新聞が真似をし,冷笑していた朝日新聞までがバスに乗り遅れて
は,と始めざるをえないほどのヒット企画であった。
当時誰も気づかなかったコロンブスの卵とでもいうべきアイデアが,新聞にはまった くの門外漢だった正力の頭から次々と発想されていたのである。2)
ここには触れられていないが,野球を別格として,囲碁・将棋欄も新聞の売れ行きを左 右する目玉商品の一つだった。正力社長最初期の企画として,囲碁の院社対抗戦(1925 年)は読売新聞の部数拡大に大きく貢献したと思われる。実際,1924年に5万部程度 だった読売の一日平均発行部数は,正力社長就任後わずか10年で朝日・毎日に迫る勢い を見せたし,1934年に大日本東京野球倶楽部(現,読売ジャイアンツ)を創設して以 来,売り上げは飛躍的に拡大して毎日を抜き去り,1977年には朝日をも凌駕した。
話を囲碁に戻そう。正力の社長就任は,日本棋院の創設と軌を一にする。さらには同じ 28

呉清源打込み十番碁と読売新聞
1924年,日本棋院のやり方に不満を持つ5棋士(雁金七段,鈴木七段,高部六段,加 藤六段,小野田五段)によって棋正社が結成され,報知新聞と独自の契約が結ばれた。こ の囲碁界の反乱に目ざとく反応したのが正力松太郎である。1926年8月には,日本棋 院対棋正社 3)の団体争碁である「院社対抗戦」――正式名称は「日本棋院対棋正社敗退手合」 ――を企画し,大倉喜七郎(男爵,大倉財閥二代目)日本棋院副総裁に挑戦状をたたきつ けた。中山典之『昭和囲碁風雲録』によると,大倉副総裁は「顔を洗ってこい」と取り合 わなかったが,正力社長は日本棋院の看板棋士である本因坊秀哉に巨額の対局料――秀哉 の家族並びに門弟を一生面倒みられるほどの額とされる――を持ちかけ,牙城を切り崩す ことに成功した。中山曰く,
正力としても一代の大バクチだったろう。しかし結果は大成功だった。秀哉・雁金局 が世紀の大乱戦となり,新聞発行部数が一挙に三倍になり,一流誌の仲間入りができた からである。4)
あとから振り返ってみれば,棋正社の反乱はコップの中の嵐に過ぎず,団体争碁などと
騒いでみても実力差は明白で,棋正社に勝ち目があろうはずはなかった。だがそこに新聞
としての商機を見出し,立派な商品に仕立て上げた正力の手腕は驚嘆に値する。中山『昭
和囲碁風雲録』からさらに引いてみよう。
正力社長はついに院社対抗戦を造ることに成功した。ひとたび成功したら,これを商
品として最高に仕立てようとし,事実,最高級品として売り出したのは流石に商売人で
あった。
氏はまず新聞紙面を用いて,秀哉・雁金の遺恨試合,大正の大争碁なるゆえんを大々
的にあおって宣伝これつとめた。そして,各地に大碁盤を据えて,一手一手の進行を速
報させた。この大碁盤速報は,七十余年後の今ならごく普通のことだが,大正の昔にこ
れを思いつき,実行した正力松太郎は,怖るべき活眼を具えていたと言うしかない。こ
れがある故に,読売はよく絶好のチャンスをつかまえて,三流紙を脱却しえたのである。
さらに,観戦記がまた素晴らしかった。難解ながら名文家の初代覆面子,井上宅治を 配し,毎朝,郵便ポストを開ける囲碁ファンは待ち遠しかったという。覆面子の観戦記 以外にも,河東碧梧桐,村松梢風,三上於菟吉,菊池寛,児玉花外,笹川臨風,寺尾幸 夫,豊島与志雄らの文士を配し,臨時の観戦記を書かせている。5)
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この時読売新聞は,棋正社が日本棋院へ他流試合を申し込む公開状を掲載(1926年 8月23日)したのを皮切りに,棋正社側からは雁金七段,小野田六段,高部六段らの談 話をのせたり,日本棋院側からは本因坊秀哉のほか渡邊鐵藏理事,林幾太郎専務理事,高 橋錬逸幹事などとのインタビューを連日にわたって記事にし,読者の関心を惹こうと躍起 になっている。果ては当時立憲政友会代議士の鳩山一郎の「回避は卑屈だ 双手を挙げて 試合に応ぜよ」なる談話からはじめて数名の代議士や貴族院議員,法学博士などの意見を 掲載し,徐々に外堀を埋めていく。名人秀哉が打つと言い,一般の大衆も対局を望むとあ れば,最終的に大倉副総裁も首を縦に振らざるを得なかったであろう。ひと月後の9月 19日には「棋道興隆のため喜ばしい対局」という大倉喜七郎の談話が載り,9月27日 から日本棋院対棋正社敗退戦の第一局,本因坊秀哉対雁金準一七段戦がとり行われる次第 となった。
この読売が仕組んだ「一大決戦」は結局6日にわたって打ち継がれ10月18日にとう とう雁金七段の力が尽きた。その間,朝刊に連載される囲碁欄(計22回)の観戦記は河 東碧梧桐以下,そうそうたる文人が交替で(時には二者が並立しながら)担当している。 最後はさすがに駒が尽きたのか――勝敗が決した後,大物ライターに依頼するのは気が引 けたのか――「斯界の権威」である某氏が講評するという形で覆面子 6)が「名人碁の是非」 を連載している。棋譜の連載と観戦記をまとめると以下のようになる。
9月28日 第1譜 河東碧梧桐「大正争棋観戦記(一)」 29日 第2譜 同上(二)
30日 第3譜 同上(三) 10月1日 第4譜 同上(四),村松梢風「名人上手 烏鷺争覇戦記(一)」 2日 第5譜 同上(五),同上(二) 3日 第6譜 同上(六),三上於菟吉「仰星雑観(上)大正争棋を観る」 4日 第7譜 同上(七),同上(下) 5日 第8譜 同上(八),菊池寛「大正棋戦一瞥記」 8日 第9譜 児玉花外「棋上の風雲(上)」 9日 第10譜 同上(下) 10日 第11譜 笹川臨風「縦横開闔録(上)」 11日 第12譜 同上(下) 12日 第13譜 寺尾幸夫「一子下される迄(上)」 13日 第13譜* 同上(下)
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呉清源打込み十番碁と読売新聞
14日 第14譜 けふ,愈よ決勝戦*観戦記ではなく無署名の記事 15日 第15譜 医師の勧告により本因坊対局を延期*同上 16日 第16譜 十八日の決勝戦*同上 19日 第17譜 雁金七段時間切れで投げて本因坊勝*同上 20日 第18譜 隠れたる斯界の権威が両棋伯の対局講評*同上 21日 第19譜 覆面子「名人碁の是非(一)」 22日 第20譜 (覆面子病気のため休載) 23日 第21譜 覆面子「名人碁の是非(二)」 24日 第22譜(完) 同上(三)7)
日本の新聞でこれほど大きく囲碁を取り上げたことはない。そこには正力社長の意向が 色濃く反映していると見ていいだろう。碁・将棋部門は社長直属として正力の指揮下にあっ た。
その後も院社対抗戦は続いたが,日本棋院の若手精鋭を前にして棋正社の旗色は悪い。 中盤戦で木谷四段が八人抜きを達成するに至って趨勢ははっきりした。しかし,これでは 読者の興味が持続しない。話題作りのために読売新聞は,肺結核を患って神戸に雌伏して いた野沢竹朝五段に応援を依頼した。野沢竹朝(1881~1931)は本因坊秀栄門 下。明治末期には「常勝将軍」の異名を取ったが,後に本因坊秀哉の碁評を批判して破門 されている。院社対抗戦当時は病気療養のため13年にもわたるブランクを強いられてい た。野沢は棋正社七段として対抗戦の後半に出場し,4勝3敗の成績を残した。最終的に 院社対抗戦は日本棋院側の26勝14敗2ジゴで終了したが,野沢竹朝七段は余勢を駆っ て1927年3月からは日本棋院の鈴木為次郎七段と十番碁を戦うことになった。主催は もちろん読売新聞である。この十番碁は1930年2月の第九局まで打ち継がれ,始めの うちこそ両者互角に渡り合ったが,次第に野沢の病状が悪化して,後半は鈴木に押し切ら れた。第九局を持碁で打ち終えてから一年を経ずして,野沢は鬼籍に入っている。
呉清源の来日
呉清源は1914年5月19日,中国福建省福州市の生まれ。本名は呉泉という。瀬越
憲作七段に才能を見いだされて1928年来日,瀬越門下に入る。本因坊秀哉名人等との
試験碁の結果,翌29年,日本棋院の飛び付き三段を許された。以来,めきめきと頭角を
現し,1933年には木谷実五段とともに囲碁戦法の革新となる「新布石法」を発表した。
そんな中,トーナメントによる日本囲碁選手権手合が1933年に読売新聞主催で行われ,
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優勝した呉清源が本因坊秀哉名人と記念対局で対決することとなって話題を呼ぶ。はたし
て呉清源は,秀哉名人との記念対局でもこの新布石を用い,名人に対して失礼千万との批
判を浴びながら,大いに注目を集めた。
こののち,1938年に本因坊秀哉名人が木谷実七段と有名な引退碁 8)を打って碁界 を退くと,毎日新聞社が本因坊名跡を買い取り,「本因坊名跡争奪全日本選手権手合」を 創設した。全日本的な組織としての日本棋院の創設(1924年)と世襲制の名人を廃止 して選手権制の本因坊戦を開始したこと(1938年)は,日本における碁界の近代化を 語る上で二大ターニング・ポイントといってよいだろう。そして呉清源の棋士としての歩 みは日本碁界近代化の歩みと軌を一にしている。欠くべからざる推進力だったとも言える。 呉清源のもっとも重要な功績の一つは17年間に及ぶ「打込み十番碁」(1939~56年) の完全なる勝利(いずれの相手も打込む 9))であるが,そのいずれもが読売新聞の主催で 行われている。それだけ呉清源は読売新聞にとっての大看板だった。
呉清源と読売
読売新聞囲碁欄の特徴は,読売新聞自体の紙面づくりの特徴をそのまま体現したかのよ うで,「イベント企画」の一語に集約できるだろう。この間の事情を佐野眞一は次のよう に分析している。
正力はすでに,大正十五年の囲碁欄や,名人木村義雄と全八段総当たり戦を載せた昭
和二年の将棋欄で大ヒットをとばしていたが,夕刊発刊後の昭和八年,今度は,天才の
名をほしいままにしていた中国生まれの呉清源と本因坊の対局という囲碁ファン垂涎の
プランを企画した。正力は勝負予想を懸賞でつのり,読者人気をあおるだけあおった。
(中略)
本因坊と呉清源の対局が行なわれた昭和八年,読売の部数は五十万部に迫る勢いを見
せていた。イベント企画は,今や正力読売のドル箱だった。
イベントをぶちあげればまず読者が興味を持つ。つづいてこれに協賛するスポンサー
の広告も集まる。当たるイベントさえ企画できれば,新規読者の獲得で販売収入をあげ られ,新規広告主の出稿で広告収入もあげることができる。さらには興行自体の収入を 見込むことができる。正力が水雷作戦と名づけたこの紙面づくりは,大衆社会における メディアというものを最大限活用した,いわば一石三鳥の戦略だった。10)
「大正十五年の囲碁欄」とは前述した院社対抗戦を指す。新聞とはそもそもニュースを 32

呉清源打込み十番碁と読売新聞
取材して記事にするものだろうが,正力社長の辣腕はニュースそのものを企画してしまう ところにある。社長就任直後の国技館納涼博覧会に始まって,最たるものは読売ジャイア ンツであろう。院社対抗戦もまさにそのようなものだったし,大勢が決したのち,野沢竹 朝を起用したのもその延長にある。朝日の大手合,毎日の本因坊戦に対抗する「イベント 企画」として読売新聞が目を付けたのが呉清源だった。名人として君臨する本因坊秀哉に 挑戦する棋士を選ぶために日本選手権を読売が企画し,その戦いを勝ち抜いたのがほかで もない,当時中国から彗星のごとく現れて注目を集めていた呉清源である。もちろん他の 棋士が勝ち上がる可能性は十分あったが,「イベント性」という点で,呉清源の右に出る ものはいない。呉清源が選手権の決勝に勝った時の正力社長の喜びようは尋常でなかった ようである。その後,読売と呉清源との間で独占契約が交わされ,蜜月時代が始まる。そ して打込み十番碁は「イベント企画」として出色の出来だった。
日本囲碁選手権と記念対局
1932年10月,読売新聞は二万号記念事業の一環として,日本囲碁選手権ならびに
その勝者と本因坊秀哉名人との記念対局を企画した。出場棋士は16名。ほぼ一年をかけ
てトーナメントを戦い,選手権者を決定する。翌年の8月,トーナメントを勝ち抜いたの
は読売の思惑通り,呉清源であった。決勝で敗れた橋本に向かって正力は「良く負けてく
れました」と礼を言ったといわれるが,敗者の心情をおもんぱかる以前に本音が思わずこ
ぼれ出たと見るべきだろうか。名人の相手が呉清源であればこそ,イベント性が最高潮に
達することを正力は見抜いていた。
そもそも二十一世本因坊秀哉は世襲制による最後の名人である。名人たるもの,おいそ れと負けるわけにはいかない。負けないためにどうするか。そもそも勝負碁を打たないと いうのが最良の策である。江戸期以来,歴代名人はいずれも名人に就任してからは極端に 対局数が少なくなるのは,こうした理由からだ。秀哉名人も1926年の院社対抗戦の緒 戦で雁金八段と対戦して以来7年間,勝負碁から遠ざかっている。今回の呉清源との対局 にしたところで,初めは自身の還暦を記念した指導碁程度の認識だったようだが,読売の 方はそれではイベントとしてのインパクトに欠ける。なにしろ謳い文句は「不敗の名人対 鬼才呉清源の対決」である。「囲碁界空前の大手合わせ」「名人最後の勝負碁」(9月12 日朝刊)とさかんに煽り立てる。さらに一か月にわたって金時計を懸賞にした読者予想を 募り(9月18日夕刊から),読者の興味を惹こうと努める。
「昭和を飾る大棋戦」(10月16日朝刊)は10月16日に火蓋を切った。翌17日か らは三日連続で直木三十五の「昭和の大棋戦観戦記」と題したコラムが連載される。読売
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田 中 恒 寿
にとってうれしい誤算だったのは,この年が奇しくも新布石が開発された年に重なってい たということだろう。囲碁の戦略にも「近代化」なるものがあるとすれば,新布石戦法は まさしくこの近代化に当てはまり,以降,碁の考え方に大きな変革がもたらされた。その 新布石を編み出したのが,誰あろう木谷実と呉清源であった。しかも,旧来の戦法の大御 所たる秀哉名人との大勝負にあたって,呉清源が臆することなく新布石を用いてわたり 合ったものだから,これ以上にセンセーショナルなことはない。呉清源第一手の三々は本 因坊家にとっての禁じ手であるが,それを敢えて本因坊秀哉にぶつけたのみならず,三手 目が星,五手目が天元と,奇想天外な構図で名人に挑んでいく。読者の評価も若武者の意 気をよしとするものから,名人に対して失礼だと憤慨するものまで,賛否両論,大いに沸 いた。
結局,この対局は1934年2月5日の終局(白番秀哉名人の2目勝ち)に至るまで 14回にわたって打ち継がれ,同時並行した新聞の棋譜連載も119回という,これまで にないロングランとなった。
打込み十番碁
本因坊秀哉が木谷七段と有名な引退碁(1938年)を打って棋界を退いたのち,誰が 日本の第一人者かという興味関心がわいてくるのは自然な成り行きだろう。呉清源か木谷 実のいずれかに違いないという見立てで世間は一致していた。そこに目を付けたのがまた もや読売新聞である。11)
両者はすでに1933年3月から時事新報社の企画で十番碁を争っている。ただし,こ れは打ち込み制ではないので,対局者にとってはよほど気楽であろう。当時木谷五段は 24歳,呉清源五段は19歳で,人気・実力ともに若手の中では抜きん出たスター棋士の 対決だった。
この十番碁を争っている最中の夏,二人は一週間ほど信州の地獄谷温泉にこもって例の 「新布石」を編み出した。この研究成果の表れが,十番碁の第五局,呉清源の黒31となっ
て結実している。
結局,時事新報の十番碁は,第六局まで打たれたところで木谷が六段に昇段したため,
三勝三敗で中止となる。その後,前述した本因坊秀哉との名人勝負碁を経て,1939年
9月から,いよいよ木谷・呉の打ち込み十番碁が始まる。今度は七段同士である。
当時,囲碁棋士が最も精力を傾けて臨んだ対局は日本棋院で行われる大手合(朝日新聞 が掲載)で,昇段はひとえにこの大手合いの成績いかんによる。相撲でいえば「本場所」 に相当するのが大手合いで,新聞碁は番付に影響しない「花相撲」といった位置づけであっ
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呉清源打込み十番碁と読売新聞
た。しかし,何といっても打ち込み制は棋士の名誉がかかった真剣勝負である。あくまで
対局者二人に限定された格付けとはいえ,打ち込まれれば「格下」のレッテルを張られる
ことになる。たとえ日本棋院の公式の段位に影響しなくても,不名誉であることには変わ
りがない。後の藤沢庫之助九段は,呉清源に二段差まで打込まれて日本棋院を脱退してい
る。打ち込み制はいわば棋士人生を賭けた戦いなのである。読売新聞曰く,
今回の十番碁は両七段 12)が対等の手割をもって開戦し,しかも本社独占の打ち込み 制によって四番勝ち越せば一段差と同様に先相先の手直りとなるのでありますから,そ の対局の壮烈さは言語に絶するものがあるでありましょう。段位を超越し双方の勝負に よって手割を決定する打ち込み碁にこそ個人競技たる囲碁の本領があり,伝統千年に及 ぶ囲碁の真髄はここにあったのであります。従って打込み十番碁こそは最も棋理にか なった争覇の方式であり,古来碁所 13)争い,名人争いがいずれもかかる方式によって 行われたのは当然のことであります。14)
読売新聞は,「打込制手合」の独占契約を日本棋院と結んでいた。当時人気の大手合と いえども打込み制の真剣一騎打ちに比べれば物の数ではないといわんばかりの読売の気概 が読み取れる。さらにはこの一見大時代でセンセーショナルな趣向が,同時並行で進行し ている毎日新聞の近代化された「第1期本因坊戦」に対抗せんがためのものであることは, 一目瞭然である。

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