ドイツ・ハンブルグで起きた、「エホバの証人」追悼式の続きの続きを書きたいと思う
そのまま翻訳の原文を掲載するのではなく、要約して書きたい
ドイツ支部委員の話の続き
前回、支部委員の話が感謝の言葉から始まったと書いた
警察、機動隊、救急隊、レスキュー隊、消防署、医療関係者、行政に対する感謝の言葉だった
さて話し手は、
「3月9日の銃撃は、数人の人々に向けられたものではなく、王国会館にいた皆に対するものだった」
つまり、犯人のフィリップは全員を殺害するつもりだったということだ
最近のエホバの証人に対する報道からすると、日本でもこうしたテロ事件が起こると思っている
支部委員の話は続く
「憎しみと暴力に対して、愛と憐れみと、同情と共感、それに希望と信仰で答えなければならない」
「聖書には、悪に打ち負かされてはならない、むしろ「善をもって悪を征服するように」とあり、私たちはここに来ることで、その言葉に倣うことを決めました」
僕もその通りだと思う
中傷や非難を受けたときイエスはなんと述べたか
(マタイ 11:18, 19) …同じように人々は,ヨハネが来て食べたり飲んだりしないと,『彼は邪悪な天使に取りつかれている』と言い, 19 人の子が来て食べたり飲んだりすると,『見ろ,大食いで,大酒飲みの男,徴税人や罪人たちの仲間だ』と言います。しかし,知恵は行動によって明らかになります」。
「知恵は行動によって明らかになります」
つまり、イエスは、自分を弁護するために時間やエネルギーを費やすことはせず、むしろ、事実に目を向けるようにと勧めた
私たち現役エホバの証人は、最近の報道に対して、つまり、誇張や、明らかな嘘、印象操作などの報道に対して、同じように答えている
何か言ってくる人たちに、
「ぜひ王国会館に来てください。実際に何を教え、どんな人たちが集まり、実際に自分の目で確かめてください」と述べている
「そして、今まで発行された文章は、サイトやアプリで見ることもできます。王国会館には印刷された本も保存されています。実際に調べてみてください」
事実に目を向けてもらいたいものだ
さて支部の兄弟の話に戻そう
「ダビデはある時、戦いからチクラグの家に戻り、そこが焼き払われているのを見た
待っていたはずの家族と友人達の姿が見えず、最悪の事態を恐れた
その記述は、愛する人を失ったときの人の感情を赤裸々に描いている
サムエル第一30:4には、「ダビデと部下たちは声を上げて泣きだし,やがて泣く力もなくなった。」と書かれている
単なる哀悼などではなく、全くの絶望が描かれている
ダビデが経験した悶えるような苦しみと悲しみは、泣く力を失うまでに彼を消耗させた
悲しみは限界まで私たちの力を奪う
愛する人との死別ほどの悲しみはありません
ダビデはこの時、悲劇の理由の説明もできず、次にどうしたら良いかもわからず、未来の見通しも力も失った
しかし、失わなかったものがある
それはサポート
6節の後半に「それでもダビデはエホバ神に頼って自分を力づけた」と書かれている
別の翻訳によると「勇気を得た」とある
ダビデは生涯にわたって、聖書にあるエホバと呼ばれる神は(ダビデにとって)抽象的な存在、遠いところにいる支配者などではない
ダビデ王にとって、神は個人的に非常に親しい友人のような存在だった
創造者とのこのような絆から、彼は耐え難い状況の中でも、耐える力を得た
ダビデの神はあなたの神でもあります。
ダビデを運んでくださった神はあなたをも運んでくださいます。
この2週間、ご遺族の兄弟姉妹が、共に時を過ごし、話し、あの恐ろしい晩について一緒に理解しようとし、共に泣くのを見た
共に沈黙するのも見た
そして、共に祈っておられるのを見た
皆さんも、エホバから力を、勇気を、得ておられました
耐え難いと感じる時も、神との強い絆から力を得られると、聖書が言うまさにその通りにしている
ダビデは詩人で音楽家で、詩を作る繊細な人だった
彼の言葉は詩編の中で、今でも読むことができる
詩編56編
この言葉は、何がダビデを動かしているか、ダビデにとって神がどんな存在、また支えであるかだけでなく、神にとってダビデがどんな存在であるかについて、彼の心の奥底の感情を表現している
皆さんもこの同じ感情をお持ちかもしれません。1-4節を読みます。
(詩編 56:1-4) …神よ,親切を示してください。 死にゆく人間が私を攻撃するから。 彼らは一日中戦って私を虐げる。 2 敵は一日中かみつこうとする。 私と戦う高慢な人が大勢いる。 3 私は恐れる時,あなたに頼る。 4 神に頼る。その方の言葉を賛美する。 神に頼る。私は恐れない。 単なる人が私に何を行えるというのだろう。
この言葉から力を感じる
脅され、攻撃されて恐れを感じる時、エホバを頼ると言っている
頼り、信頼することは、恐怖に打ち勝つ力がある
ダビデは一瞬でも、怖いのに自分は見捨てられた、一人ぼっちだ、と感じることはありませんでした
イザヤ41章にある通り、エホバが「共にいて、あなたを強める、あなたを本当に助ける、右手であなたの右手をつかんでいる」とおっしゃった通りに感じていた
ダビデが書いているように、攻撃の真っ最中でさえ、怖くなかった
「今この瞬間まで、私はずっとエホバと話してきたし、今もお話ししている。これから何が起ころうと、エホバの側に立つ」
つまりダビデは信仰があれば、恐れに打ち勝つことができると書いている
(詩編 56:8) …私の放浪の歩みをあなたはよく知っています。 私の涙をあなたの革袋に集めてください。 あなたの書に記されている私の涙を。
ダビデは、「私の放浪の歩みをあなたはよく知っています。」と言った
ダビデがどこで歩を進めているか、エホバがご存じでなかったことは、一歩たりともなかった
ダビデの生涯中、全ての瞬間をエホバはご存じでだった
時に、今もそうかもしれませんが、あなたはたった一人で誰も入ってこない洞窟の中で、足を踏み外して穴に落ち込んだような気持ちになるかもしれない
でもエホバはあなたの感情を、居場所を、どの瞬間にもご存じ
ダビデと同じように
ダビデがどんなにエホバを近くに感じていたか
「私の涙をあなたの革袋に集めてください。 あなたの書に記されている私の涙を」
小さな瓶にダイヤモンドを集める人がいる
神はダイヤモンドよりはるかに貴重な、あなたの涙を集めている
すべての涙を
涙には、一つ一つに、物語があります。
まず、その涙を流した時のあなたの感情の物語
寂しさ、絶望、圧倒されるような感情かもしれない
恐れ、あるいは怒り
そしてそのような感情には、それぞれ、歴史、つまりそのように感じた理由が存在する
涙一つ一つを、エホバが集めるということは、なぜあなたがそう感じるか、その理由と、背後の経緯を、エホバはすべてご存じという意味
そのような涙ひとつひとつはエホバにとって貴重で、私たちの近くにいたいと願ってくださっている
そして理解してくださっている
今の状態もご存じ
あなたが何を感じ、どうしているか、ご存じ
ダビデがチクラグで、灰の中に崩れ落ちて泣いた時、そばにいてくださったのと同じ
あなたもダビデと同じように、ひとりぼっちではありません
ダビデは、涙を流す時こそ、エホバを近くに感じたかもしれず、もしかしたらあなたも今、そのように感じているかもしれません。
ダビデにとって信仰とは何だったか
それは、単に何かの宗教に属すということではなかった
ダビデにとって信仰とは、もっとも高い方との友情だった
この友情が、ダビデを支えた
あなたにとってもそのような力となります。

