2024年3月7日(木)に東京大学で開催した

「東大生 VS 川島素晴 feat. 国立音大生」

の動画を公開しました。

 

ライリー「In C」、 ケージ「Branches」、フルクサスの作品、東大生が作曲した作品

全13演目(及びお客様が書いた断片によるアンコール)を、東大生と国立音大生のコラボによる総勢19名で一挙上演したものです。

 

(終演後の集合写真)

 

以下に、当日配布したパンフレットの文章、及び撮影した写真とともに、動画をご紹介します。

(以前掲載したものに加え、幾つかの部分において当日の内容を補足しております。)

 


 

 現代音楽の作曲家として国立音楽大学で教鞭を執る私、川島素晴が、2023年度の秋セメスターに東京大学で開講された文理融合ゼミ「身体と芸術」を講師として担当することになった。

 この授業では、現代音楽史における様々なトピックを作品の上演を通じて学び、その成果を踏まえて学生たちがそれらのトピックによる作品を作曲、さらにそれをお互いに実演し、ディスカッションする、という内容に取り組んできた。

 月曜朝8:30開始という過酷な時限の開講であるにも関わらず、TAや聴講含む8名が参加、何作品もの提出をこなしてきた上で、期末最終課題に至った。本日は、その成果発表会であると同時に、これまでに取り組んできた既存の名作の上演も併せた、13演目に及ぶ盛りだくさんの内容となった。

 

 一方で、本務校である国立音楽大学では、「現代音楽演奏実習」という授業を担当している。作曲系学生を対象に演奏系学生の聴講なども交えて開講され、毎年秋のコンサートで実験的な音楽作品を上演していることをはじめ、今年度はテリー・ライリー本人を交えての公開講座で本日上演曲「In C」を実演したり、TV番組への出演を果たしたりもした。

 今回のこの東京大学の授業成果発表会に、国立音楽大学学生を誘ってみたところ、東京大学側の参加者よりも多くの学生たちが参加することとなり、結果、私自身を含めて総勢19名が出演する大がかりな内容となった。

 

 東大生と音大生を引き合わせることによる相乗効果は想像以上のものがあり、リハーサルを通じて作品も演奏もブラッシュアップされていく様は、これまでに私が経験してきた音楽作りとも一味違った独特な時間であった。

 この幸福な出会いがもたらす充実のパフォーマンスは、決して他では見られることのない、実験音楽の新しい可能性を拓くものとなるだろう。

 

・・・と、観客の期待値を爆上げさせることで、参加者たちがどのようなプレッシャーを体感することになるかを実験する作品。

 

川島素晴

 


 

<プログラム>

 

◆柏木泰知《Time Zone》

◆渡邉正紀《顰蹙》

◆若林出帆《YouTube 上のアリア》

◆福田孝樹《Five in a Row》

◆Robert Bozzi《Choice 12》
◆塩見允枝子《Boundary Music》
◆John Cage《Branches》
◆若林出帆《ブィドロ》


◆江英齊《素数の音楽》
◆関口由翔《Authentic》

◆山口雄大《ヴァイオリン・コンチェルト》

◆西垣龍一《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》

 〜若林出帆《USJにおける著作権の意義》

◆Terry Riley《In C》

・アンコール(お客様が書いた断片によるミニマル音楽)

 


 

<前半の動画>

 

 

00:00 柏木泰知《Time Zone》

04:37 渡邉正紀《顰蹙》

14:47 若林出帆《YouTube上のアリア》

18:11 福田孝樹《Five in a Row》

32:08 Robert Bozzi《Choice 12》

34:09 塩見允枝子《Boundary Music》

39:42 John Cage《Branches》

51:01 若林出帆《ブィドロ》

 


 

楽曲解説(署名のないものについては作曲者自身による。)

 

柏木泰知《Time Zone》

 

近年のグローバル化により、異なる文化圏に居住する他者の存在を強く意識することが多くなった。たった今、ここは昼間で、私達は日本語で会話している。しかし同時にたった今、 地球の反対側は夜で、私たちが日常的に使わない言語で人々が会話している。
本作品は1日を120秒に圧縮し、音楽実習室の床を地球という平面に見立て、多種多様な時間に多種多様な人間が生活をする様子、またそれらの邂逅を表現しようと試みたものである。

 

(リハーサル風景)

 

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渡邉正紀《顰蹙》

 

スコアには、演奏方法が次のように指示されている。

 

演奏方法
1 演奏者がステージ上にあがる。
2 聴衆に向けて一礼する。
3 演奏者は聴衆の「顰蹙を買う」演奏をする。

4 聴衆に向けて再び一礼しそれを以て演奏終了とする。
5 聴衆はその演奏が「顰蹙を買っ」たと判断したら、手を挙げる。
6 聴衆の多数決で「顰蹙を買っ」たと判断されたら次の演奏者に代わり、判断されなければ 3 からやり直す。

 

この作品を最終課題で提出した作曲者は、本授業で獲得したスキルは「顰蹙の買い方」であ るとでも言いたげである。たしかにそれは否定できない。なお、作曲者自身は残念ながら当 日欠席となるが、これは体調不良のためであって顰蹙を買おうとしたのではない(と思うが、 はたして)。

(西垣)

*(川島註)4名が上演しているが、作曲者はリハーサルにも現れなかったため、国立音大側の参加者2名は、結局、作曲者とは会わずに終わってしまった。

 

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若林出帆《YouTube 上のアリア》

 

シンプルな三部形式の美しいアリアです。「YouTube 上の」に特に意味はありません。広告 も、厚かましいチャンネル登録の催促も無い、私が書いた音楽だけをお楽しみください。

*(川島註)と言いつつ、普通のピアノトリオと思いきや、こうした↓ギミックが仕掛けられている。

 

 

 

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福田孝樹《Five in a Row》

 

本作品は作曲の過程に連珠(五目並べ)を採用したものである。勝利を目指して対局される連珠の盤面が音楽を構築するという「不確定性」は、その変換方法を定める「偶然性」とかけあわされる。一方で、出力される音楽は連珠の対局に少なくない規制を与えることに気づく。

 

 

(リハーサルより)

 

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Robert Bozzi《Choice 12》

 

フルクサスは、1960年代にジョージ・マチューナスらによって展開された芸術運動である。 フルクサスを明確に定義づけることは困難であるばかりでなく、その活動の趣旨にも反することになるだろう。ただし、伝統的に権威づけられてきた「芸術」なるものに抵抗する反美学的な振る舞いを共通して見出すことは可能である。ボッジもフルクサスに参加したア ーティストのひとり。

(西垣)

 

 

 

(リハーサル風景)

 

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塩見允枝子《Boundary Music》

 

フルクサスに参加した芸術家のなかには小杉武久や刀根康尚、オノ・ヨーコら多くの日本人 が含まれている。塩見允枝子(1938-)もその代表的な作曲家の一人である。類似の芸術形 式である「ハプニング」が一回性、不確定性を強く帯びているのに対し、「フルクサス」は 作品を「テキストスコア」という形で後世にのこしている。

《Boundary Music》のスコアの全文は以下のようなものである。

音が音として産まれるか否かの境界条件にある可能な限り微かな音を発せよ。パフォ ーマンスでは、楽器、人体、電子機器、その他どんなものを使用してもよい。

(西垣、スコアの邦訳も) 

*(川島註)前後の作品の転換作業そのものを作品の上演として実行した。

 

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John Cage《Branches》

 

《4 分 33 秒》で一般にも広く知られる作曲家ジョン・ケージの《Branches》は、10種類の 植物を楽器として使用する作品である。10 種類のうち 2 つは「増幅されたサボテン」(今回 は松ぼっくりで代用)と「ホウオウボク(メキシコ原産の巨大なマメ)」の指定がある。各人の演奏時間は8分と指定されており、その中でどの楽器をどの時間に演奏するかは易経によって決定される。

この作品において特徴的なのは、演奏の「方法」について指定がないということ、つまり「即興」が認められているということである。よく知られているように、ケージは即興を嫌っていた。なぜか。

ケージの方法論の軸をなすのは「偶然性」と「不確定性」であるが、偶然性は作曲者の、不 確定性は演奏者の恣意性を排除するために有効な手段である。それに対して、即興には演奏 者の「手癖」が入り込む間隙がある。このような理屈で即興を認めなかったケージが、この 作品で即興を許したのは、植物を演奏したことがないからであり、それゆえ演奏者がそれを 制御することができないためである。

(西垣)

 

 

 

 

 

 

(デニズ・アクブルットによるリハーサル写真集。

彼は動画の編集も担当、すばらしい腕前です。)

 

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若林出帆《ブィドロ》

 

ガルトマンの絵に着想を得てムソルグスキーが作曲した組曲「展覧会の絵」。その曲をもう一度目で見える形に残そうという試みです。牛車の悲哀を感じていただければと思います。

*(川島註)休憩中に上演されています。

 


 

<後半の動画その1>

 

 

00:00 江英齊《素数の音楽》

06:18 関口由翔《Authentic》

11:06 山口雄大《ヴァイオリン・コンチェルト》

17:47 西垣龍一《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》

   〜若林出帆《USJにおける著作権の意義》

 


 

楽曲解説(署名のないものについては作曲者自身による。)

 

江英齊《素数の音楽》

 

2、3、5、7、11、13、17...... 素数の音を、聴いたことありませんか。

素数は、美しい。

その美しい数字たちから生まれた音楽も、きっと美しい。

 

第一楽章 ”7”

7人の演奏者に、「ドレミファソラシ」の音を。

一人ずつ順番に、1 からの整数を数えていく。

その数字が素数であれば、椅子から立って音を演奏する。

また素数が来たら、座ってお休み。

ひとまず、100まで数えていこう。

 

第二楽章 ”5”
次は 5 人。音は、ファ、ソ、ラ、ド、レのシャープ#。

 

第三楽章 ”7 + 5” 

最後に、一楽章と二楽章を同時に演奏して、音を重ねよう。

 

さあ、聴いてみよう。素数の音楽を。

 

*(川島註)このように↓前方の白鍵役の奏者は白、後方の黒鍵役の奏者は黒の衣装を着用した。

 

 

 

 

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関口由翔《Authentic》

 

音楽は演奏者と聞き手との関係によって成り立ち、その聞き手による「批評」と隣り合わせ である。その文脈において、人々はしばしば「本物の音楽」と「偽物の音楽」を区別し、作 品の良し悪しを語ってきた。《Authentic》では、クラシック音楽のフレーズ、いわゆる「本物の音楽」と演奏者自身が考えた「偽物の音楽」が混在して演奏される。観客の皆さんには人々が今までそうしてきたように、誰が「本物」を演奏し、誰が「偽物」を演奏しているのかを「批評」し、見分けてみて頂きたい。私たちにとっての「本当」とは一体何なのだろうか。

 

 

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山口雄大《ヴァイオリン・コンチェルト》

 

この作品はヴァイオリンの様々な特殊奏法を偶然性を取り入れて演奏する作品です。じっくり耳を傾けないと何も聴こえないような奏法もあれば、耳をつんざくような甲高い音が出る奏法も。様々な奏法を1つのサイコロに委ねた一度きりの演奏を、ヴァイオリンの新たな可能性とともにぜひお楽しみください。

 

 

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西垣龍一   プログラムノート音楽《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》

 

別ヴァージョン(メタレヴェルの解説)

「東大生 VS 川島素晴 feat. 国立音大生」のお知らせと西垣龍一《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》もう一つの解説|N←S Journey (note.com)

 

ディズニー社の著作権に対する態度は、歴史的に多くの芸術家の関心を駆り立ててきた。そ の例をここで掲げるとキリがないが、日本の例だけを挙げてみてもたとえば、石岡瑛子 (1938-2012)の「X像の沈黙」(1990)や福田美蘭(1963-)の「Copyright」シリーズ(1999) や、音楽では梅本佑利(2002-)の《いんちき音楽》(2021-22)、直近では《世界で最も有名 なネズミ、ついにその檻から逃げ出す!》(2024)に至るまで枚挙に暇がない。

本作《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義 Significance of Copyright in the World of Mi**ey Mouse》もそのような歴史の延長線上に位置するものであるが、もちろん2024年 1 月 1 日にアメリカ本国において「蒸気船ウィリー」(1928)の著作権が切れたことを踏まえ ている。とはいえ、日本においては状況が変化したわけではないため1、本作はディズニー 及びその個別のキャラクターの著作権についてではなく、「著作権」というシステム自体に 主眼を置くものである。すなわち、本作は著作権なるものが暗黙の裡に前提にするところの

「作品」というロマン主義的概念を揺り動かす目的を含んでいる。

具体的には、この作品には演奏者とは別に「ナビゲーター」が用意されており、このプログ ラムノートをもとに「作品」についての詳しい解説をする。美術館で数百円払うとついてく るあの音声ガイドのようなものである(本作では無料!)。ここで、ひとつの問いが提起される。プログラムノートでも、音声ガイドでもよい。そのような「作品についての言葉」とともに作品を経験するとき、それは「作品」の外部にあるものと言えるだろうか? 本作のナビゲーターは、「作品の外部」ととりあえずみなしておくことによって円滑に機能している 「プログラムノート」を手に作品のなかに登場してしまうことによって、その「外部性」を 脅かしている。

 

1 日本においてはより状況が複雑で、福井健策弁護士は「2020年5月に切れたとも2052年5月まで続くともとらえられる」と指摘する。したがって、この作品も「安全」ではない。しかし、法的にあいまいな状況に対してのリスク・マネジメントとして表現を委縮させることは著作権の意義にもっとも反するものであり、芸術家の態度としてももっとも相応しくないものであると考える。

NHK「初代ミッキーマウス 登場アニメ著作権切れで米で2次創作可能に」2024年1月21日、

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240121/k10014329321000.html (2024年3月5日最終閲覧)。

 

本作は三つの部分からなる。それぞれについて解説する。

 

I. ディズ●ーランドのイエス (Jesus in Dis*eyland)

社会学者のデイヴィッド・ライアン(1948-)はある学術書をディズニーランドで開催されたキリスト教福音派の組織ハーヴェスト・デイ・クルセイドによるイヴェントのエピソード2 からはじめ、そこからタイトルを『ジーザス・イン・ディズニーランド』 と名付けている。

ここではそのような場面が再現される。しかし、複数のミッ●ーマウスたちとミ●ーマウス によって奏されるのは、日本の新宗教の音楽の断片である。作曲者が新宗教の音楽で卒業論 文を書いたことと恐らく無関係ではないが、それ以上にディズニーと新宗教のある種の相同性について考えたい。新宗教の建築物がしばしばまるでシンデレラ城のようであることを思い出してもよい。きわめてシミュラークル的なものだ。もちろん、新宗教団体がしばしば擬古典的な交響曲や公声曲を使って信者を導こうとするのも似たようなことだ。ミッ● ーとミ●ーが登場したあとで、作曲者が登場してくる。しかし、彼が口ずさむ歌は新宗教のうたではなく、ロベルト・シューマンのピアノ曲が原曲の賛美歌である。

2 デイヴィッド・ライアン『ジーザス・イン・ディズニーランド ポストモダンの宗教、消費主義、テク ノロジー』大畑凛、小泉空、芳賀達彦、渡辺正平訳、新教出版社、2021 年。

 

II. 飲んだくれのミッキー (Gambolier Mi**ey)

Gambolier という見慣れない単語は、チャールズ・アイヴズ(1874-1954)による歌曲(同 時期に作曲されたと思われるピアノ・ヴァージョンおよび室内楽ヴァージョンも存在する) 《飲んだくれの息子 A Son of Gambolier》に由来する。この作品は流行歌がもとになって いるようで、実際にアイヴズ作曲としてではなく現在まで伝わっているヴァージョンもある(そのうち一つは別の歌詞をこのメロディーに乗せたジョージア工科大学のファイト・ソングである)。IIでは、このアイヴズの歌曲が何やらミッ●ーと関係があるようなないような音楽と交りあいながら、すでに酔っぱらってしまったらしいミッ●ーやミ●ーによって奏される。

 

III. 作曲者とミ●ーマウスの結婚 (The Wedding of the Composer and Mi**ie Mouse)

リヒャルト・ワーグナー (1813-1883) の重厚な結婚行進曲が力強くミッ●ーたちによって 奏でられ、華やかな雰囲気が会場に広がる。しかし、その荘厳な響きはやがて、まるで舞台 裏で繰り広げられる喜劇の序章であるかのように、ジャック・ヒルトン (1892-1965) のノ ヴェルティ・ソング《The Wedding Of Mr.Mickey Mouse》(1933) へと変貌する。

ワーグナーの堂々たる旋律が次第に軽やかで愉快なメロディーに変わり、まるで新郎と新婦がステージに登場するかのようにミッ●ーたちが一堂に会する。この意外性に観客たちは笑顔を浮かべ、期待に胸を膨らませる。ヒルトンの作品が始まると、その陽気なリズムに合わせてミ●ーマウスが楽しげに歌いだす。演奏者たちは楽曲に合わせて軽快に踊りながら、まるでおとぎ話の中にいるかのような雰囲気が漂う。ユーモアと温かさが溢れるシーンでは、作曲者とミ●ーマウスの掛け合いが楽曲全体を彩り、観客たちはその愛らしいやりとりに心を奪われることだろう。そして、ヒルトンの楽曲が幸福な結末に向かって盛り上がる瞬間、作曲者とミ●ーマウスは喜びの中で誓いの言葉を述べ、結婚式は大成功に幕を閉じる。めでたく、作曲者とミ●ーマウスは結婚を迎え、会場は歓声と拍手に包まれる。

 

*(川島註)本作品の最後では、作曲者が入れ替わり

 若林出帆《USJにおける著作権の意義》

 の上演を行なって終了しています。

 

(演奏者が被っていたミッ●ーマウス)

 

 

(曲中に登場する酒瓶 / 解説者によって楽曲は始まる)

 

 

(奏者が次々と登場し、作曲者自身も登場)

 

(上演中に演奏者自身が撮影したもの)

 

 

(諍いが始まる / ホワイトボードの作曲者クレジットを書き換えて乗っ取る)

 


 

<後半の動画その2>

 

 

00:00 Terry Riley《In C》

17:27 アンコール(お客様が書いた断片によるミニマル音楽)

 


 

楽曲解説

 

Terry Riley《In C》

 

本作品はアメリカの作曲家テリー・ライリー(1935~)によって 1964 年に作曲された。
《In C》は彼のレパートリーの中でも有名であり、ミニマルミュージックの元祖である。 本曲は53の短いモチーフで構成されており、このモチーフを各奏者の裁量によって任意の回数繰り返し演奏する。冒頭こそ「C」が強調されるモチーフが目立つが、その後ドミナン トを彷彿とさせる「G」の目立つモチーフが登場する。 その後「F#」の導入により属調へ移ったことを示唆するモチーフが登場し、作品中間部の大部分は「F#」を含むモードで占められる。そして急激なリズムパターンの変化を迎え、 先程の「F#」に加えて「B♭」が登場し、「F」や「B」と同居することにより作品全体の中で最も曖昧な旋法の瞬間が生まれる。 更にその後冒頭のモードに回帰するが、そこへ「B♭」が再び登場し、最後の 3 つのモチーフは、C上で見ればミクソリディア旋法に相当する。 楽器編成は特定されていないが、ピアノや鍵盤打楽器などパルスの提示が明確にできる楽器が入っていることが望ましいとされている。
なお、ライリーは2020年、日本滞在中にコロナ・ウイルス感染拡大の影響で帰国できなくなったことをきっかけに、現在は山梨県北杜市に在住し、日本国内で精力的に活動している。 昨年7月には国立音楽大学で作曲公開講座が開催され、国立音大の学生が演奏する《In C》に助言を行った。今回国立音大の出演者の多くは、ライリーの指導を受けたメンバーである。

(山本)

*(川島註)ライリーの薫陶を受けた国立音大の学生達の参加を得て、綿密なリハーサルを重ねた上での上演だったのだが、東大の学生の数名が確信犯的にぶっつけ本番で様々な仕掛けを繰り広げ、唖然茫然、「聞いてないよ〜」という内心の声が飛び交うスリリングな本番となった。このことについては、参加者の中でも賛否が分かれ、場外でも「東大生 VS 川島素晴 feat. 国立音大生」が継続するという、興味深く印象深い本番となった。

 

 

 

 

 

 

(リハーサルより)

 

  

 

 

(本番より)

 

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アンコール(お客様が書いた断片によるミニマル音楽)
 
チラシの左下に、小さな五線が表示されていた。
 
 
そこには「ここにお好きな音符を書いて(でたらめでも何かのフレーズでも構いません)当日お持ちください」と表示されていた。
しかし、それをいったいどうするつもりなのか、当日になるまで決定していなかった。
開演直前に、アンコールとしてライリー《in C》の要領でこれらの断片を演奏すれば良いのではないか、という話になり、開演前にそのことをアナウンスした。
そのことを告げるまでは実際に書き込んできた観客はほぼいなかったが、参加を促したところかなりの参加を得ることができ、休憩中に回収したところ、下記のように34名からの提供を受けることができた。
 
 
これを回収してすぐに休憩中に切断して編集し、演奏用のコピーを作成するというドタバタを経て、しかも簡単な打ち合わせをした以外はぶっつけ本番という状況の中、上演されたのがこのアンコールである。
しかし驚くべきことに、それでもそれなりの音楽に仕上がっているあたり、さすが、ライリーの仕掛けの包容力には感服せざるを得ない。
(川島)

 

 


 

<出演者一覧>(肩書きは出演当時)

 

デニズ・アクブルット 国立音楽大学音楽学部演奏・創作学科作曲専修3年

安藤直弥 国立音楽大学大学院音楽研究科修士課程作曲専攻作品創作コース2年

江英齊 東京大学教養学部文科二類2年

ヘナン・フォンチス 国立音楽大学大学院修士課程作曲専攻作品創作コース2年

福田孝樹 東京大学工学部建築学科3年

井川良彦 国立音楽大学大学院音楽研究科修士課程作曲専攻音楽理論コース2年

城谷伶 国立音楽大学大学院音楽研究科修士課程作曲専攻作品創作コース2年

柏木泰知 東京大学教養学部理科一類1年

川島素晴 国立音楽大学及び大学院准教授、東京大学非常勤講師

松井琉成 国立音楽大学アドヴァンスト作曲理論コース1年

西垣龍一 東京大学総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース修士1年

佐藤瀬奈 国立音楽大学音楽学部演奏・創作学科作曲専修2年

関口由翔 東京大学教養学部文化三類1年

田中蒼士 国立音楽大学音楽学部演奏・創作学科作曲専修3年

若林出帆 東京大学教養学部理科二類1年

渡邉正紀 東京大学教養学部文化三類1年(都合により出演はありません)

渡邊陸 国立音楽大学大学院音楽研究科修士課程作曲専攻作品創作コース1年

山田奈直 国立音楽大学大学院音楽研究科博士後期課程創作研究領域2年

山口雄大 東京大学教養学部理科二類1年

山本春奈 国立音楽大学音楽学部弦管打楽器専修(打楽器)現代音楽創作コース、作曲理論コース3年

 


 

<オフショット>
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

追記:この授業のTAである西垣龍一さんが、ノートに総括記事を執筆してくれました。
   なかなかの力作、そして考えさせられる内容です。是非ご覧ください。