先の投稿にて、2020年3月24日のリサイタル「川島素晴 plays... vol.1 “肉体”」の全動画をご紹介致しましたが、その原点である2007年6月8日に開催したリサイタル「eX.3 川島素晴ソロリサイタル “ミューズの贈り物”」について、動画を蔵出し致しました。

 

全11曲のプログラム(詳細はこちらをご覧下さい)のうち、今年のリサイタルで取り上げた3曲(ライヒ《手拍子の音楽》川島素晴《視覚リズム法 Ia》グロボカール《肉体の?》)につきましては、当時の収録状況よりも良いかたちで撮影した今年の映像(それぞれリンクしてあります)を是非ご覧下さい。(ちなみに、ライヒは、当時は椅子に座って、もう一つの椅子に足を載せて演奏していました。今年のように足を曲げた状態での立奏の方が当然大変ですが、鍛えたお陰でできるようになりました。)

また、山根明季子《Dots Collection II》は、だいぶ前から作曲者のアカウントより公開されております。

そして、ジョン・ケージ《4'33"》もプログラミングされておりますが、それは、川島素晴《cond.act / konTakt / conte-raste III》の上演後、曲の最後に倒れたまま、「ただ今より、ジョン・ケージの《4'33"》を上演致します」とのアナウンスを行う演出で「上演」されたもので、この動画は割愛致します。

 

従いまして、ここでは上記を除く全6曲の動画についてご紹介致します。

 

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■川島素晴 / Invention Ic -solo version (1994/2007)

        フレームドラム&ヴォイス:川島素晴

 

 

この作品は、私が大学4年生だった頃の提出作品である。「日本歌曲」という提出課題を前に、私は、既成の日本語詩に単に付曲することを選ばず、「日本語の歌唱」そのものに対する真摯な考察を試みようとした。ここでは、「は」と発音する漢字を並べただけのテキストを用いて、ひとつのシラブルが多様な意味を持ち得るという、表意文字としての漢字の特色に着目した。声は様々な唱法で「は」の意味を解釈して発音し、ティンパニがそれに対応するかたちで様々な奏法で発音する。余談ではあるが、私はこの作品が「不可」となって、それだけの理由で留年となってしまった。(しかしこの作品は、その後多くの再演機会に恵まれている。)

 

<テキスト>

葉   羽   叵 把  /  覇   巴   壩 吧 刃 豝 叭 芭  /  葩   頗   爬 玻  /

疤   琶 歯 派 跛 簸  /  爸 耙 欛 吧 碆 菠 杷 怕 笆 弝 坡 陂 靶 鈀 破  /  波  端

 

この演奏は、ティンパニのパートをフレームドラムに改めたデュオヴァージョン「Ib」を、さらにソロで演奏するヴァージョン「Ic」である。

 

*デュオ版の演奏(松平敬、神田佳子)はこちら

*《インヴェンション》シリーズについての概略はこちら

 

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■川島素晴 / 孤島のヴァイオリン (1991)

        ヴァイオリン:川島素晴

 

 

無人島に幼少から生活する人物が、漂着したヴァイオリンを見たとき、彼はいかなる音楽を奏でるであろうか・・・という、シミュレーション作品。既存の楽器を打楽器にみたてる作品と言えば、シェルシの《コタ》が有名だが、この作品では、既成の音楽様式を全く知らない人物による演奏、という設定であり、根本的に異なる発想である。ひとりの個人史の中で音楽がどのように生成され得るであろうか、という空想世界。

まずはヴァイオリンを、奇異な物体として観察する。「弓」は存在しないから、4つの弦が張られた木の物体、という以上のものではない。続いて、背面を用いた打楽器奏法を模索。次に、前面の、弦と胴体を使った打楽器奏法を探求する。最後には、敢えて言うなら「親指ピアノ」に近い状態で音楽を実践。(「打楽器としてのヴァイオリン」ということで考察するなら、この形態が最も自然な演奏姿勢なのではなかろうか。)

ここでの実践は、後に自分が「演じる音楽」という作曲法を確立するに至る布石として極めて重要な意味を持っていた。「演じる音楽」は、1994年に発表したヴァイオリン作品《夢の構造III》から始まる概念だが、そこでは、楽器の伝統的奏法と非伝統的奏法の間の階層、ということを追究した。《孤島のヴァイオリン》は、その意味では全く伝統に立脚しない奏法の徹底的な探求だったわけだ。

大学1年のときの作品で、当時はしばしば上演していたが、その後1999年に1度やって以来、8年ぶりに上演したことになる。
(2020年追記:その後、2019年に、ヴァイオリニスト伊藤(尾池)亜美さんのリクエストで第三者でも演奏可能なスコアを作成、2019年版として彼女の「ヴァイオリン・リサイタル」の中で上演された。)

 

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■マウリツィオ・カーゲル / Exotica -solo (1972)

        トーキングドラム&ヴォイス:川島素晴

 

 

カーゲルは、アルゼンチンに生まれ、ドイツで活躍した作曲家である。ムジークテアターの実践で知られるが、そのような演劇的要素を含むと含まないとに関らず、作品には常にシニカルなアイロニーが含まれ、そういった「異化」の姿勢こそが、彼の創作を一貫する独自性と言えるであろう。 《Exotica》は、1970年代に入り、西洋においてエキゾティシズムがもてはやされるようになった頃に作られたもので、6人の演奏者がそれぞれ10個ずつの民族楽器(非西洋圏)を持って、エセ民族言語を繰り広げるといった「いかがわしい」作品である。しかしこの「いかがわしさ」がミソである。カーゲル自身がアルゼンチン出身であることから明白なように、彼は、彼自身が抱いていた西洋人の似非エキゾティシズムをカリカチュアライズし、冷笑する目的でこれに取り組んだわけである。 1997年にこの作品の日本初演を企画し、自分も演奏者として参加したが、この2007年のリサイタルではソロヴァージョンの上演となった。 《Exotica》という作品は、幾つかの部分に分かれており、それを演奏のたびにその演奏者たちで構成し直すという「開かれた形式」になっているが、沢山ある部分の中にソロ用の部分も7つほど存在しており、それらについては「ソロヴァージョン」としての上演が許諾されている。 7つのソロパートのうち、本日上演するのは「D5」の楽譜である。これは、日本が輩出した世界的打楽器奏者であるイサオ・ナカムラ氏がリサイタルでしばしば上演しているので、ともすれば彼の演奏をお聞き及びの方も多いかもしれない。彼はアンサンブル・モデルンの出した《Exotica》のCDでも演奏しており、カーゲルから《ティンパニ協奏曲》を献呈されているから、極めて親しい間柄のようである。 私はあるとき、この部分の楽譜を眺めていて、ある重大な事実に気がついた。それは、伴奏楽器のパートに、ベートーヴェンの《田園交響曲》の第1楽章のリズム構造、そのままが引用されているという事実である。当然、この事実をイサオ氏が知らないわけがないと思い、あるときイサオ氏にきいてみたところ、彼はそれを知らなかったとのこと。カーゲル本人も、そのことを告げずに録音していたということになる。 そもそも「悪趣味」を絵に描いたようなこの作品、このソロパートは、さらに悪趣味の極みと言えよう。西洋人がきいて「なんだこのエセ民族音楽は・・・」と思うに至る音楽が、実は西洋音楽の古典的名曲に立脚しているというのだから!(タネ明かしをしないでほくそ笑んでいるであろうカーゲルは、ほんと、確信犯ですな。) というわけで、ここでの演奏は、ちょっと悪ノリして、「田園」を強調しております。(それでいながらにして、どこまでもいかがわしく!)

 

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■川島素晴 / cond.act/konTakt/conte-raste III (2007/初演)

        Cond.actor(指揮パフォーマンス):川島素晴

 

 

演技を伴う指揮者のことを、自分は「cond.actor」と呼んでいる。指揮のアクションというのは、そもそも極めて「音楽的」でありながら、実際には発音を伴わない。その時点で自分にとっては「演じる音楽」の素材として、極めて重要な位置を占める。このようなアイデアによる作品として最初に作ったのは《cond.act/konTakt/conte-raste I》であり、それは打楽器とのデュオによるものであった。その後、フルート独奏と室内アンサンブル、それにcond.actorによる作品として作ったのが《フルート協奏曲》であり、これにはサブタイトルとして《cond.act/konTakt/conte-raste II》と付されている。
しかし、今回はその「ソロヴァージョン」である。前述の通り、本来なら発音を伴わない指揮というアクションで、いったい何が可能なのか・・・。(もちろん、声を用いるわけだから、「無音」の作品というわけではないのだが。)
この題名は、英語「cond.act=conductor(指揮者)/ act(動き)」、独語「kontakt(コンタクト)/ Takt(指揮棒)」、仏語「contraste(コントラスト)/ conte(コント)」という具合に、「コン」で始まる3ヶ国語のシャレでできている。このうち、「コンタクト」や「コントラスト」については、デュオ以上の編成にのみ有用な語に思えるが、ここでは、ソロでもそのような内容を帯びている。
声による音と指揮のアクションが織り成す「視覚と聴覚の齟齬」。

 

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■ブライアン・ファーニホウ / Bone Alphabet (1992)

        100円ショップの品物7個:川島素晴

 

 

1970年代に、それまでの前衛音楽の袋小路を反省する潮流として、新ロマン主義とか、新しい単純性とかいった動向が始まる。しかしそのアンチのアンチとして、「新しい複雑性」というのが起こる。これ以上あり得ないであろう複雑なリズムや音程と、演奏行為のすみずみまで幾層ものパラメータで規定したスコア。そのような潮流を牽引した旗手が、このブライアン・ファーニホウである。
しかし複雑さの極地は、結果的に構造が認知できないというリスクを抱える。認知できなければ、どんなに難しい楽譜を読み解いたとしても、デタラメを演奏するのと一緒になってしまう。そこでファーニホウは、この《Bone Alphabet》では、それまで用いてこなかった「反復的リズム」を導入した。(とは言っても、多声部に及ぶ複雑な対位法によって書かれているわけだが。)
この作品の画期的な「単純さ」は、もう1つ指摘できる。それは、使用すべき7つの楽器が、厳密に指定されておらず、あらゆる楽器で奏法のマニアックな探求を忘れなかったファーニホウにしては、至ってシンプルに「叩く」ということに徹しているのである。委嘱者であるスティーブン・シックに「スーツケースに入れて運べるような楽器編成で」と頼まれたファーニホウは、だったら楽器選定は奏者に一任しよう、と判断し、7つの楽器(記譜の順に高い音程から低い音程に向けて並べられ、できるだけ異なる材質のものを用い、もし同じ材質があれば、それらは隣接音程で設定してはいけない)という以外には特段の限定性を設けなかったのである。
材質の例に「石」なども含まれていることから、いわゆる「打楽器」ばかりを用いる必要はなく、実際、この作品の演奏では、しばしば、日用品を1つ混ぜてみる、などの楽器選択がなされている。
今回は敢えて、使用する7つの楽器全てを、100円ショップで調達することにした。極度に洗練された伝統的西洋音楽の極北たるファーニホウの楽譜を、プロレタリアートに実行すること・・・今回のリサイタルの「ミューズの贈り物」なるタイトルは、「音楽」の根幹を問う作品群を取り上げる、という意図が忍ばされているが、ここでは、最も高度な作曲技法による作品を、どこまでもチープな楽器でリアライズする、ということに着眼したのである。(ちなみに、この作品で用いている4本のバチも1本105円*で購入、楽器を敷いているものも105円*で購入。*注:2007年当時の消費税額)

 

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■マウリツィオ・カーゲル / 『国立劇場』 より (1970)

        笑い声:川島素晴

 

 

《Exotica》で、西洋人の「似非エキゾティシズム」をあざ笑ったカーゲルだが、ここでは、オペラ(即ち西洋音楽の最高峰)の殿堂である「国立劇場」なるものを、解体してみせようとする。70年代のいわゆる「アンチオペラ」的劇場作品の代表例。そのものずばり《国立劇場》と銘打たれたこの作品では、歌手、合唱、ダンサー、舞台道具、器楽奏者などなど、オペラを構成するあらゆるものが分解され、短い断片的楽想の集積によって舞台が構成されていく。今回上演するのは、その作品の「序曲」と言える位置付けになる《repertoire》という部分の一部。この《repertoire》は、発泡スチロール球、ヤシの実、ハタキ等、ありとあらゆる物体によって断片的楽想が作られており、1番~100番まで、100の断片からなる。本来はこれらを数名がかりで、書割の裏から顔をのぞかせる要領で上演するのだが、今回は、この中から100番1曲を上演する。ちなみに、お題は「Lachen」。「笑い」である。

 

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なお、このコンサートについての野々村禎彦氏による批評が、彼の主宰する「web-cri.com」というウェブ批評サイトに掲載されておりました。このサイト自体は現在閲覧できなくなっていますが、ウェブアーカイヴサービスの「Wayback Machine」に残るアーカイヴがありますので、こちらにリンクしておきます