こちらの公演にて初演される作品《ギュムノパイディア/裸の若者たちによる祭典》の解説です。
 
2016年12月25日(日)16時 東京文化会館 小ホール
「アンサンブル室町 ~MERRY CHRISTMAS MR. ERIK SATIE!」
 
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当日配布のパンフレットには紙幅の都合で僅かな文字数しか掲載できませんでした。
(このブログを参照して頂くように添えてあります。)
以下、全文を掲載しますので、ご参照下さい。
 

 
◆川島素晴《ギュムノパイディア/裸の若者たちによる祭典》(2016/アンサンブル室町委嘱)
 ~69名の西洋古楽器奏者、及び69名の邦楽器奏者のための
 

1)古代ギリシアの祭典「ギュムノパイディア」

 

 今回、「アンサンブル室町」が新作を委嘱する条件は、2016年に生誕150年を迎えたエリック・サティ(1866-1925)に関すること、というものであった。私は、サティの代名詞と言うべき代表作《3つのジムノペディ》(1888)を題材にすることを決めたが、それをそのまま扱うのではなく、サティが題材とした古代ギリシアの祭典「ギュムノパイディア」を参照することとした。

3つのジムノペディ》は、「ギュムノパイディア」の様子を描いた壺絵を見てインスパイアされたとされる。このスパルタで行われたアポロンやバッカスなどの神々をたたえる祭典は、青少年を集めて全裸にして神々の像の前で踊らせたり運動場での競技を繰り広げたりするものである。参会者は酒を酌み交わしたり、詩を朗唱したりもしつつ行われる壮大で賑やかな儀式であり、サティが作曲したような厳かな雰囲気のものでないことは明らかである。壺絵の静止画からサティの曲解が生じたのか、それともサティ一流の反語的ジョークが込められているのかはわからないが、いずれにせよサティの音楽が、この古代ギリシアの祭典の本来のイメージからかけ離れたものであることには相違ない。

 この作品では、サティの原曲を下敷きにした音楽に始まり、それが徐々に変質し、異文化が渾然一体となって、騒然と酩酊した儀式を行う様を夢想しており、サティの原型が変質していくことがむしろ、本来の古代ギリシアの祭典のイメージに近づいていくという転倒現象を引き起こしている。現代から見たサティへの眼差しは、サティからの古代ギリシアへの眼差しというフィルターを経て、同時に、現代から見た古代ギリシアへの眼差しでもあり得る。ここに見られる「3つの眼差し」は、次の項目ともつながるものである。

 
 

2)「三位一体」に基づく3つの基礎構造

 

「アンサンブル室町」の委嘱条件として、初演演奏会の開催日がクリスマス(1225日)であることをも意識せよ、ということもあった。私はキリスト教徒ではないが、一般的日本人として、この日を何となく祝うことに同調して今までの人生を過ごしてきたので、この提案にも何らかの同調を示すことを考慮した。本作で意識したのは、「三位一体」である。クリスマスそのものについては、日付や経緯など、諸説あるが、ここでは「三位一体の天主が人類を救済するために遣わした救世主、イエズス・キリストの降誕」であるものと位置付け、「3」という数字への徹底的なこだわりを貫くことを行った。

 中世ヨーロッパにおいては、もっぱら、三位一体を表す「3」拍子の音楽が書かれていた。14世紀に入り、アルス・ノヴァが2拍子の筆記を可能としたところ、これに教会が反発、こうした音楽を禁止する動きすら起こったほどである。もしもこのとき、この禁止令が強く人々の音楽活動を縛るものであったなら、その後の音楽史はどうなったであろうか。

 ここで用いられているサティに基づく原型とは、《3つのジムノペディ》の各曲を下敷きに「旋律」「和音」「低音」の3要素からなる基礎構造をACの3種類設定したものである。その設定の際、3拍子が3小節で1フレーズ、それが3フレーズ(つまり全部で9小節)で1巡の旋律、という構造となっている。(《ジムノペディ》は3拍子の音楽であるが、フレーズ単位は3小節単位ではない。つまり、ここで扱われている原型そのものが、サティのオリジナルとは異なるものとなっている。)そしてそれが最終的には、最初の高音域グループに対して次の中音域グループが3倍の音価(=1/3のテンポ)で重なり、更にその次の低音域グループはそのまた3倍の音価(=1/3のテンポ)で重なる。つまり最速のグループは最も遅いグループに比して9倍の速度(=1/9のテンポ)で演奏することになる。

 これは、中世ヨーロッパにおける「三位一体」に由来する3分割リズムへの信奉が、ルネサンス以後もそれを発展させる形で音楽構造原理を進化させたとしたら、という仮設に基づくものであると同時に、ガムラン音楽のような構造原理(高音域のグループから数えて2倍、2倍と音価が拡大していく)を、2の単位ではなく3の単位で適用したかたちにもなっている。東西の古くから伝わる音楽構造原理の融合を試みているわけだが、そのような試みはこの楽曲の編成そのものの由来とも整合している。

 
 

3)異文化の融合としての「アンサンブル室町」

 

 委嘱団体である「アンサンブル室町」は、16世紀に日本にキリスト教とともに伝来した西洋古楽器と、当時の邦楽器とが邂逅したなら、どのようなアンサンブルが奏でられただろうか、という史実に基づく仮想(旗揚げ公演のタイトルは「豊臣秀吉の夢」であった)を現実にしたものである。しかし、バテレン追放、禁教、鎖国と進む当時の日本にあって、そのような東西楽器のアンサンブルの可能性は絶たれていく。そして、「長崎では子どもたちがグレゴリオ聖歌を口ずさんで行進していた」というのどかな世界が、弾圧と迫害で一変してしまう。隠れキリシタンによって聖歌は「オラショ」として口承のみで伝承され、そのほとんどは声に出すことを憚られ、念じるのみで行われた。比較的監視の緩かった長崎県の生月島にのみ「歌オラショ」は残り、1年の限られた時期のみに監視所の目を盗んで口伝で伝えられたが、そのような制限の中での伝承は、必然的に経年劣化を生む。明治を迎えて陽の目を見たその音楽は、グレゴリオ聖歌そのものから見れば全くの別物と化してしまったが、それでも彼らにとってそれはそれでしかあり得ない信仰の対象であり、大切に歌い継がれた財産であった。グレゴリオ聖歌を礎に筆記による音楽史の発展を辿ることとなったその後の西洋音楽から見て、恰もパラレルワールドを歩んだ結果と言えるこの現象は、鎖国と禁教という歪んだ状況が生んだ日本独自の、いや世界的にも特筆すべき西洋音楽受容史として、極めて興味深いものである。ここでの変質は、ともすれば純粋な意味での「東西の融合」なのではあるまいか。日本の聲明にも似たオラショの唱和を聴くと、情報として伝承された聖歌が、日本人の血によって日本独自の文化として定着した姿を見る想いがある。

「アンサンブル室町」は、禁教を敷かれる前の時代の、西洋楽器と邦楽器の幸福な邂逅という史実に基づくアイデアであるわけだが、その幸福がその後、鎖国によって儚く霧散していく命運を示唆すべく、ここでは歌オラショにおける口承伝承による変質過程を再現することを試みた。「もしも、鎖国時代にどこかの地域でこのようなアンサンブルが行われ、歌オラショの伝承のようなかたちで継承されていたならば」という仮想である。異文化の邂逅の結果、相互に口伝で伝承されることで、徐々にそれぞれの血が混ざりあってその音楽は変質し、融合していく。ここでの変質は、異文化によってもたらされた楽器への観察であり、リスペクトである。その差異を尊重し、構造的な特徴や限界などへの理解を示した上で継承すること。このような過程に、異文化への相互理解の理想形が示唆され得るのではなかろうか。作曲者が恣意的にもたらす東西の融合ではなく、奏者間で自然発生的に生じる融合こそが、真の意味での「東西の融合」を生むのではなかろうか。本作の上演形態は、このような理念に基いて導かれたものである。

 
 

4)作品の上演方法

 

 設定されたACの基礎構造は、それぞれ23名ずつのグループによって演奏され、且つ、それぞれ西洋古楽器奏者、邦楽器奏者のグループが交互に演奏する。つまり、全体としては23名による6つのグループが存在する。楽器の選択の条件は、西洋古楽器と邦楽器、それぞれが同じグループの同じ構造のコンビネーションにおいて、同種の発音原理や近似な音色、音域であることが望ましいが、後述するように必ずしも全く同じように演奏できる必要はない。Aは比較的高音域で高速で演奏可能なもの、Cは比較的低音域で持続的な演奏が可能なもの、Bはそれらの中間的なもの、というかたちで配分されるのが望ましい。なお、初演時の編成は、次のようになっているが、これはあくまでも一例に過ぎない。

 

[A] 西洋古楽器=旋律:ソプラノ・リコーダー、和音&低音:チェンバロ

  邦楽器=旋律:篠笛、和音&低音:十三絃

 

[B] 西洋古楽器=旋律:フラウト・トラヴェルソ、和音:ポジティヴ・オルガン、低音:セルパン

  邦楽器=旋律:尺八、和音:笙、低音:ほら貝

 

[C] 西洋古楽器=旋律:ヴィオラ・ダ・ガンバ、和音:リュート、低音:太鼓

  邦楽器=旋律:胡弓、和音:琵琶、低音:太鼓

 

 最初の基礎構造Aを西洋古楽器奏者(初演時はソプラノ・リコーダーとチェンバロ)が演奏し、それを邦楽器奏者(初演時は篠笛と十三絃)が「模倣」する。すると完全な模倣は成立せず、若干の誤差が生じる。その誤差を、西洋古楽器奏者が再び模倣し、さらに誤差が生じ・・・ということを繰り返していく。その果てに得られる音楽は、前項3)で示した「東西の融合」に向かっていくであろう。

 同様のことをBCについても行うが、それが更にもう1巡していくうちに、Aは徐々に加速し、Cは徐々に減速していく。その結果、それらが同期すると、前々項2)で示したような合奏の状態、即ちCに対してB3倍速、A9倍速で重なるような状態に至る。

 こうして「サティが変質していった先」に得られた合奏の状態は、第1)項で示した、「ギュムノパイディア」の世界を彷彿とさせる、ある種の陶酔と狂乱を生む。「三位一体」に基づく合奏形態を繰り広げた果てには、そのような概念も存在しなかった紀元前、古代ギリシアの世界観に辿り着く。そして、時空を超えた夢想のレトリックが幾重にも絡み合う時間の終わりには、再び原型のサティへの回想がなされ、いったい何が正しいのか、という問いを投げかけて閉じる。

 

 思えば、現代日本における「クリスマス」のあり方は、緩やかに異文化を受容する日本人の気質を端的に表すものであり、現在の排外主義の世界的台頭はそのような日本人気質とは相容れないものであることは明白である。この作品における、「緩やかな異文化の受容」による合奏世界は、禁教、鎖国という日本の悪しき歴史をまるで学ぼうとしない、現在の世の中に対するアイロニーであり、そのような精神こそが、エリック・サティへのオマージュなのである。