アクション通信

アクション通信

ロックアクションズ代表、石田憲一オフィシャル・ブログです

こんばんは、
執筆者の石田です。

早速ですが、
ALIVE

 

 

の発売記念価格は、
本日23時59分まで。

5000円引きで購入できるのは、
今回限りです。

 

 


まだの方は、ぜひご覧下さい。


ALIVEは、

 

 

5000円引きで購入できるのは、
本日23時59分まで。

今回限りです。
https://rockactions.wixsite.com/ream

さて、7月10日にリリースされた、

アクションが上手くなる筋トレ「ALIVE」

 

 

ですが、

本日、コンテンツを追加しました。

動画2本、テキスト1ページです。

 

このように、「ALIVE」

 

 

は進化する教材なので、

私が必要だ思いついたら、コンテンツを追加していきますし、

また購入者からの質問があれば、それに答える形でも追加していきます。

 

そうそう、簡単な宣伝動画を作ったのを忘れてました。

貼り付けておきますので、どんなものか見てください。

 

 

 

 

 

 

石田の本棚から、順番に武術系の技術書を紹介しています。もちろんアクションに役立てるためですよ。

今回は「格闘技式カラダ作り」です。

 

 

こちらはTKこと、高坂剛の総合格闘技の選手がよくやっている

トレーニング方法を一般向けに紹介したモノです。

器具を使わないトレーニングがほとんどなのですが、

いわゆる自重系の筋トレしか知らない人には、ちょっと新鮮かもしれませんね。

だからボディーメイキング系のトレーニングの間に、

ちょっと入れ込んだりすると、変化がついていいでしょう。

 

 

アクション的には、まあ器械体操ほどではありませんが、

アクロバティックな感覚や、そのための基礎体力を養うには

かなりいいでしょう。

とりあえず、この本で紹介されている動作は、全てできなくてはいけません。

そういった意味で、基礎体力の合格ラインとなりますね。

何といってもマット運動と違って、部屋でできるのがいいと思います。

 

ということで今回の武道書紹介は、「格闘技式カラダ作り」でした。

石田の本棚から、順番に武術系の技術書を紹介しています。もちろんアクションに役立てるためですよ。

今回は「中国拳法入門」です。

 

これは懐かしい思い出のある本なのです。

というのもこれは当初、私の持ち物ではありませんでした。

中学の時の同級生(確か岩田君)の家に遊びに行った際、

普段はさほどアクティブではない彼だったのですが、そんな彼の本棚にあったのがこの一冊だったのです。

当時、空手の本は持っていたのですが(たぶん)、まさかこの世に、中国拳法の技術書があるなどとは考えたこともなかった私は、嫌がる彼にしつこく食い下がって、譲ってもらったのでした(もちろんお金は払いましたよ。)

そんなわけで、いまだに手放せない岩田君経由の一冊なのです。

 

 

内容的には、マンガ「男組」の中で見られるようなカッコよさは皆無だったのですが、

まあ、それは仕方ありません。

従ってアクション的には、全く影響を受けていないのですが、

まあ、「なんか違うな〜」ということを教えてくれた一冊ということで、

未だに大切に持っているというわけです。

ということで今回の武道書は、「中国拳法入門」でした。

さて、久々に再開することにしました。

石田の本棚から、順番に武術系の技術書を紹介しています。もちろんアクションに役立てるためですよ。

今回は「柳生心眼流兵術」です。

 

こちらは書籍としてもかなりレアで、マニアックです。

今でこそ柳生心眼流も動画などでその実態を目にすることができますが、

この書籍発刊当時は、ビデオでも購入しなくては見ることができませんでした。

といっても、そのビデオでさえ発売されていたかは定かではありませんが。

そういった意味で、資料性というだけでも、当時は貴重だったのです。

何といっても、空手以前の打撃系武術ですからね。

 

 

非常にユニークな武術ですが、実際はかなり強いようです。

やはり実戦性という点では、それなりのものがあるのでしょう。

しかしアクション的には、直接参考になるところはありませんね。

私も素振りは、何か参考になるかも・・・と思ってやってみたのですが、

モノにならないままフェードアウトしてしまいましたので。

映画「兵隊やくざ」で主演の勝新太郎がお約束で大暴れするのですが、

その時の腕のブン回し方が、「もしかして心眼流かも!」なんて想像したこともありましが、

実際は違うみたいですね。

ただしこのファンタジーの世界がアクションの楽しみ方の醍醐味でもありますから、

知識として知っておいて損はしませんよ。

特に書籍は、動画のようにそのもの全てがわからない分、想像で補うことがアクション的にはとても役に立つので、オススメです。

ということで今回の武道書は、「柳生心眼流兵術」でした。

現在のアクション映画には、アクションの不在性を感じることが多い。だからこそ、それらの作品に不在なものが何なのかを考えること、それ自体がアクションの本質について考えることにもなるのである。その不在なものからアクションについて考えるとき、アクションとは、究極的には「芸である」ということになるのかもしれない。しかし本音を言えば、芸だけの存在に還元はしたくない。また事実、芸だけに還元できるものでもない。アクションとは、そのような不安定かつ不可視の領域に、その本質が根ざしている。だからこそ、それが見えていないがゆえの思考が、業界外部の人間や、また本質をつかんでいない人たちから、次々出てくることになる。それがまた新たな誤認を増やすことにつながっているのだ。

だからこそアクションの言説がアクション人の中から生産され、誤認を正すために独自性を明確化するということが重要性を帯びてくる。もちろんその際は、不可視の領域を明らかにすることが要求されるだろう。つまりは、「芸だけ」ではない立ち位置の明確化ということだ。ではなぜ「芸だけ」ではダメなのか。それは芸の成分が、近代化以前から連綿と続く本質だからである。

 

では「芸とは何か?」という定義の問題になるのだが、ここで辞書的意味を引出しても、なんの解決にもなるまい。あえていうなら、芸とは「そのもの以外の補助訓練などを必要としないで成立し得る表現行為」と考えられるだろう。これはアクションとの関係性を説明することを考慮に入れたものであるため、必ずしも十分とはいえないが、一つの境界線を示していることに重要性がある。つまり芸とはダイレクトなもの、ダイレクト性が高くインダイレクト性が低いものなのだ。

それに対して「そのもの以外の補助訓練などを必要とする表現行為」は、芸と比較するとインダイレクト性が高い。このダイレクト性/インダイレクト性の配分比率で考えることは、一見近似した行為が異なることを見抜く手段となり得る。例えば格闘技と武術。似て異なものである両者だが、その違いは前者がインダイレクト性が高い(筋トレなど補助トレーニングが必要)のに対し、後者は低い(=ダイレクト性が高い=筋トレ等が必要とされない)という違いがある。これは武術が芸に近いということを示すことにもなるが、ある一面としては当たってるだろう。言葉を変えるなら、インダイレクト性が高いというのは、スポーツ性が高いということになる。つまりスポーツとは、そのもの以外の補助トレーニングなしには、競技に勝つための上達が成し得ないという特徴があるのである。それに対しダイレクト性が高いというのは、まさしく芸性が高いということであり、そのものを徹底的に追求することが上達につながる、そういった分野といえる。これは近代以前/以後という分け方も可能であるところが興味深い。スポーツが近代化に伴い普及してきたことと併せて考えると、芸とは本質が異なるところにあることを示唆しているためだ。

 

さて問題をアクションに戻そう。アクションの本質が芸であるならば、それは芸に吸収されてしまう存在となる。もしそれが真ならば、芸ができればアクションもできるということになるわけだが、現実にはそのようにはならないことが明白だ。そうでなければ、アクションという名称が新規に付けられるはずもない。そこにそれまでとは異なる新しさがあったからこそ、新名称としてのアクションが定着したはずである。これは誰もが直感的に納得できるだろう。

 

前記したように、それは身体運動としてみた場合、芸というものが、スポーツ的な基礎体力トレーニング等が不要の領域にあるもの、と逆説的に定義できるからである。わかりやすい例えを挙げるなら、芸のためには腕立て伏せをする必要がある、と直接的な関係として捉える人がどれだけいるかということだ。だからこそアクションの独自性とは、芸(武術との近似性も含む)とスポーツ的運動性の融合にあると考えられるのだ。つまりスポーツ的な運動性・運動能力無くしては成立しない領域における、ある種の限定的な芸こそがアクションの本質であると捉えられるのである。それは単純化するならば、最大心拍数・最大筋出力の下における芸であり、スポーツ的な爽やかさであり、またスポーツ的肉体美でもある。

もちろん切り口はこれだけではないが、アクション芸術の核にあるアクション芸について考える場合、筆頭に来るべきポイントであろう。

そこで、アクションとは何か?という存在論についての誤認の代表例を挙げると、次のようになる。

 

<誤認例> アクション=空手+器械体操+ボディービル+演技

 

あくまでも例えだが、上記のスキルを身につけるなり、体現すれば、それがアクションである、もしくはアクションができる、アクションに対応できるという考えは、アクションを舐めた思考もしくは無理解思考の典型だ。ともすればそれらのスキルが高ければ高いほど、また希少性が高いほど(よりマイナーな武術をマスターしているなど)、オリジナルの本家アクションを超えることができるという、根拠のない誤認がまかり通っている傾向が著しい。それは前記した、アクション芸の存在を認知できないからである。そして、このアクション芸の存在を認知できないということは、アクションをやる上で致命的欠陥となる。しかしながら形式に則って動ければ、それなりの形態としてのまとまりを作ることはできる。それは先人の遺産に則っているからで、実はそれ自体がアクションを都合よく利用しているだけということでもあるが。もちろんそれにしても、プロの手を借りてという前提ではあるわけだ。つまり無知ゆえの思い込みだけで、自律的にアクション表現を成立させることなど、できるわけがないのは当然のことなのである。

実のところアクションとは、究極的には「アクションしかできない者にしか、できないもの」なのだ。それは認知科学的には「知識のないものは見えない」=アクションの本質をつかんでいる人にしか、その本質が見えないということであり、その本質をつかむには「アクションしかできない」くらいにどっぷりと浸かる必要があるということになる。これはいわゆるアクションバカになれということにもつながるわけだが、その真意はスティーブ・ジョブズ言うところの「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」と相通じるものだ。そしてどっぷり浸かるとは、全領域をより幅広く経験し、習得することをも意味する。だから単にちょっとやったことがあるとか、近似した運動ができるとか、映画をたくさん観て研究しているとか、そういった外部からは全く見えない領域であるのは当然のことなのである。

もちろん、だからといってその本質すらイコール、アクション芸ということにはならないところに、さらなる奥深さがあるわけだ。しかし共通点ではある。少なくとも

 

  アクション=空手+器械体操+ボディービル+演技

 

というスキルの組み合わせではないところに存在するもの、それがアクションの本質なのだ。もし仮に上記の足し算が真ならば、それらのプロやチャンピオン、名優とされる人は、全てアクションができる、上手いということになるが、そうならない現実は我々の目の前に横たわっている。だから現実を見ることができれば、わざわざ語る必要がないことであるはずが、言説生産しなくてはならない状況にあるというのが現代なのだ。

 

とはいえ問題なのは、その「アクションしかできない者」であるはずの人々がアクションそのものを喪失しているということであろう。そのことが、「アクション・マインドの喪失が生んだアクションなきアクション」を再生産し続けているという現状なのである。

 

人体の素晴らしき可能性

 

今回は、ひょんな事から遭遇した市井の達人と、彼から示唆されたことについて書く。

それは日曜日の夜、川崎でのことだ。その日、クラブチッタでのイベント、heavy metal soundhouseの会場から多くの人に紛れて出口に向かったおり、黒ずくめの集団の中で茶色のダウンジャケットを着た人が、妙に目立っていることに気付いた。彼は、なんと目の不自由な方であった。そこでご縁があり、川崎駅までご一緒することになったのだが、驚愕の出来事は、その渦中でのことである。

 

道すがら歩きながら、先ほどのライブの話や、好きなバンドの話、最近行ったライブの話など会話を楽しみながらも、途中でふと気づいたことがあった。彼は、歩くのがとても速いのである。それは私が思わず「速すぎませんか?」と確認してしまったくらいなのである。彼は涼しい顔で「大丈夫ですよ」とのこと。しかし後で確認したのだが、ツレはあまりの速さに、小走りにならざるを得なかったそうであった。

 

ここで、ちょっと考えてみてほしい。

 

彼は右手に白杖を持ち、地面を叩きながら歩いている。そして左手は私の右腕を掴んでいるのである。つまり両手がふさがっていて、位置が固定化されているため、腕を振ることが全くできない状態なのだ。その彼が、私の左腕を後ろから押すようなベクトルで圧を掛けるほどの高速で歩くとは、それがどれだけ特異なことか、ご理解できるだろう。

 

「からだで作る<芸>の思想」という書籍は、新陰流の使い手で大学教授の前田英樹と、能楽師の安田登の対談なのだが、そこで剣術と能の歩法の共通点について語り合う下りがある。重心を前方に崩すことで地面からの反発力を使わずに摺り足で進むという、現代人にはほぼ失われた歩法である。その結果、身体を捻らないまま移動することになるわけだ。これは江戸人にとっては、ごく当たり前の体遣いであった。これについては運動科学者・高岡英夫によってその研究成果が、書籍「意識のかたち」で報告されているだけでなく、この体遣いは、身体意識・ジンブレイドによるものであることが明らかにされている。ジンブレイドについての詳細は、書籍にあたっていただくとして、その存在は、合気道養神館の達人、故・塩田剛三によって明証されている。

 

そして彼を駅まで送り別れた後、私の頭の中に浮かんだのは、まさにこの「ジンブレイド」という言葉だった。確かによくよく考えてみれば、目の不自由な方々は、日々白杖を使って障害物を避けながら歩いているわけで、リアルタイムでそれらを感知し、即座に避けるためにもジンブレイドの発達は必然と言えるわけだが、そんなことはこれまで考えてみるまでもなかったところに、衝撃の大きさがあったのである。それは前述したように、白杖を使うがゆえの、腕を振らない歩法の要求がもたらした結果かもしれないのだが、いずれにしても、目の不自由な方々は、みなジンブレイド遣いの達人ということになる。そして、ここに人体の持つ無限の可能性と、それに対する感動があると考えるのだ。あえて人体とした理由は、知識や思考、思想性から切り離したいからである。それらがなくとも、必然的要求に対して、切羽詰まった状況下においては、人体の持つポテンシャルを最大限引き出すという、人間の持つ可能性の素晴らしさが、ここにはある。これこそは、現代人に対して大いなる示唆を与えてくれるのではないだろうか。

 

そしてアクションが今後進むべき方向として、人間の持つ可能性の素晴らしさを表現すること、それが単なるスポーツ的な身体能力の高さだけではなく、地面からの反発力を使わない類のパフォーマンスとなるのではないか。それは結果的に能や武術に接近することになるのかもしれない。そんなヒントを彼からいただいたような気がしたのであった。

川崎までお供させていただいた彼には、この場を借りてお礼を言いたい気分である。

 

前回、「アクションの極意性2」からの続きです。

 

・・・そして立回りが、日本刀によるチャンバラに留まっていた時期は、俳優の身体能力の延長で対応できていたかもしれませんが、それが徒手格闘に転移したことにより、必然的により高い機動性を要求されることになりました。その理由は二つあります。双方が刀を持っているチャンバラでは、攻防のタイミングを合わせる許容範囲が広範囲にわたっていたため、動作のシンクロに余裕がありました。双方の持つ刀の長さが、タイミングがズレた場合の誤差修正を容易にしていたからです。例えば、タイミングが遅れた場合、腕を伸ばすことで、なんとか帳尻を合わせ、リカバリーすることは可能です。だからそれ以降の主役の動作リズムを崩さずに、立回りを進行することができるのです。それが徒手格闘に転じたとたん、許容範囲が一気に狭くなり、間合いも近くなったため、シンクロの幅が極端に狭くなりました。手足の間合いは、刀の間合いよりも近い上に、手足は刀より短いですから、そのままではタイミングの遅れを簡単に修正することはできません。そのためには、機動性を高めることで対応するしかなかったのです。

もう一つの理由は、日本で確立された立回りがチャンバラ期に、すでに表現としての間合いを最適化していたことがあります。これはやられ役が、自分の番が来るまでは、全体の構図として見栄えのいい遠間の位置で牽制し、自分が掛かっていく時だけ、主役に最適な間合いで、なおかつベストなタイミングで接近するという、高度な間合い制御技術でした。それがスタンダード化され、ほとんど全てのやられ役が使いこなしていたのです。これはおそらく、日本人の識字率の高さに匹敵する、世界的にみても驚異的な技術性であるはずです。しかも制度化された中での学習体系が完備されている学校制度なしに、スタンダード化されていたということ自体が、日本の前アクション段階であるチャンバラ期の、世界に誇るべき凄さ、=極意性の普及度の高さなのです。そしてこの高度な間合いに対する感覚と、制御技術が徒手格闘の立回りに転移されたことで、さらなる高度化が成されました。これこそが、私が提唱している「日本はアクション先進国である」という根拠の一つなのです。そしてまた、これもアクションの極意性を支える一つと考えられるでしょう。・・・続く

 

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殺陣と立回り

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アクションの極意性

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アクションの極意性2

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前回「アクションの極意性」の続きです。

 

・・・とはいえ、前述した即時性能力の獲得と技量は、必ずしも両立するわけではありません。ただし順番は確実にあって、即時性能力が先に来ることは間違いないのです。そして、これの能力を獲得するためには、最低限の運動能力が要求されます。だからこそプロは、結果的なことなのかもしれませんが、はじめに基礎体力を養成することを主眼とするのです。そしてアクションにとって、基礎体力養成に最も有効だったのが、マット運動を中心とした器械体操系の練習でした。もちろん最初からアクションに必要な、機動性を高める訓練を意図して導入されたかどうかは定かではありません。おそらくそうではなく、むしろスタントマンの養成に有効である、という観点の方が高かったはずです。しかし、結果的にはアクションの身体能力、その土台形成に有効であったところから、定着したとは言えるでしょう。

 

ここで見落としてはならないのが、機動性の獲得という視点です。これはアクションの身体表現性と関わってくる問題なのですが、高い機動性の要求は、アクションが身体表現として成立するために必要な条件であり、決して技のためではないのです。

スタントが身体表現であるか否かは、判断が分かれるところでありますが、非言語であるという観点では、身体表現にカテゴライズされることでしょう。しかし身体表現そのものの定義を厳密化していくと、その範疇から外れる可能性もあります。私の考える最低限の条件は、見世物とし成立するための時間的尺度を満たすことができるということです。そうなると、ほとんど全ての直接的身体運動系スタントは、それだけでは瞬間芸的なものであるわけですから、身体表現には満たない、身体表現未満の運動に留まっていると考えた方が自然です。

 

それに対して、アクションが身体表現として成立した背景には、立回りの存在があります。リアルに考えるなら、単なるケンカか、または殺害シーンに過ぎない短時間の闘争を見世物化するためには、立回りという独自の熟成された技法が必要なのであり、それは実在する武術などの技法とは、設計原理が根本的に異なるものなのです。その違いが、身体表現として成立させるための方法論ということになります。

 

・・・続く