正月明けの連休中に江東区に行く用事があったのでその帰りにふと思い立って佃島に立ち寄りました。

 

年末から読んでいた(厳密にいうとAudibleで聞いていた)出久根達郎の直木賞受賞作「佃島ふたり書房」を読み終えて少し気になっていたからです。

 

現在の住居表示で中央区佃2丁目となっているエリアは1980年代にリバーシティ21というタワーマンションの先駆けとなるプロジェクトが始まった場所であり、もとは佃島ではなく石川島であったことは石川島播磨重工業の工場跡地であることからうっすら知ってはいたものの、本来の佃島は今の佃1丁目と2丁目の一部の「わずか3000坪の島」に過ぎないとは知らなかったのです。

 

永代通りを南に折れるとすぐに越中島です。越中島から相生橋を渡るとリバーシティの南端に至り、右折すれば八丁堀を経由して東京駅八重洲口まで一本道になっているし、直進して月島を抜ければ勝どきを経由して銀座まですぐに着いてしまうそんな中央区のはずれに佃島があります。

 

駐車場に車を置いて歩き始めると路地の奥に住吉神社の銅葺屋根が見えてきました。境内に足を踏み入れると少々遅い初詣客でなかなかの賑わいです。

 

参拝を済ませて参道を歩くとすぐに目の前が開けて隅田川が広がり、向こう岸に聖路加病院のタワーがそびえています。そこはかつて対岸の明石町から佃島への渡し船がついたところで3軒ほどの佃煮屋さんが今も営業を続けています。

 

店を覗きながら今少し歩くと細い路地を挟んだ家並みの中に幾件か戦前からの建物が残っています。小説の中にもありましたが佃島は関東大震災の火災で焼けなかった数少ない場所だそうです。

 

太平洋戦争末期の東京大空襲では春一番の南風が吹く日に越中島から北に焼夷弾が落とされて隅田川沿いが一気に火に包まれたと聞いたことがありますが、そのときも佃島の被害は比較的少なかったのかもしれません。

 

東京の街は関東大震災と大空襲と二つの大災害を経て大きく変貌しましたが、東京オリンピックから万博までの高度成長期にも街並みは大きく変わりました。昭和39年の明石町から佃島への佃大橋開通は島の住人の暮らしを大きく変えたはずです。そのころ都電が地下鉄へ姿を変え、路地は舗装され、トイレの水洗化が進みました。

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

 

写真は佃小橋から佃堀の漁船とリバーシティの高層マンションを眺めたところ。高度成長期に続くバブル時代も東京の変貌がさらに進んだことを思い知らされます。

 

江戸時代初期に隅田川河口の中州を埋め立てて出来た佃島。今では晴海、豊洲、有明と高層マンションが立ち並ぶ東京湾岸エリアの中にポツンと残ったわずか3000坪の小さな島ですがここには江戸・東京の400年の記憶が残っています。

 

 

株式会社アクティオ

代表取締役 遠藤薫

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