"救われるか救われないか"と言う所が信じるかどうかの根拠になるのは、いかにも損得勘定臭い。
一神教に身を投げ入れられなかったのは、どこか常に試されている気がしたからかと思う。
輪廻も、来世の為に現世で功徳を積まねばと言われると、そんな馬の鼻先に人参みたいな理屈で功徳を語るのかと思う。
損得、試練、来世幸福皆結構。
ただ、結果齎されるものを期待する信心とは信心なのか。
期待するまでを含めての信仰心なのだろうか。
よくわからないままに、只管打坐を寄る辺としています。 過去未来ではなく今この時を観察し、今ここの接地をおざなりにはしたくないと思う。
