『俳優の仕事』第一部
第3章 
行動。<もしも>、<与えられた状況>1

学校の劇場での授業
マロレトコワが「ただ、舞台の上で座っている」という芝居をする
そして主人公もそれを行い、トルツォフ先生が今度は実践する
先生の行動につい目が吸い寄せられる

[「舞台の上で起きることはすべえ何かの目的のためになされなければならない。
そこに座っていることも何かのためであって、単に観客に見てもらうだけではない。
だが、これは容易なことではなく、学ばければならないことだ」と

そして、今度がマロレトコワと先生が一緒に舞台へ

そしてトルツォフ先生はメモの書付をしていて、彼女は先生の次の指示を待つ
どんな感じだった?と聞かれた彼女は「あれが演技だったのですか?」と
「ただ座って、先生がメモを見つけて.何をすればいいのか指示して下さるのを待っていただけです。演技なんかしていませんでした」と

それを先生はよかったと
「君は何かのために座っていて、よけいなことは何もしなかった、それがよかったのだ」と言った

そう、お芝居ってだから緊張しないはずなんだよ
お芝居に集中するって

[足を見せたり、何から何まで自己をさらけ出すのと、座って、どんなささいなことであろうと、とにかく何かをしているのとでは?
確かに、あとの場合も対して面白みはないかもしれない。だが、それは舞台に生活を作り出している。
ところがどんな形であれ、ただ自分を見せびらかすだけではますます芸術の世界から遠ざかることになる。]
派手だから、前者の方が好かれたりそっちをやろうとする人は多いんだけど…

私の先生が求めるとこって多分後者なのかな
だから作り過ぎなくていい、それでいいって極端なこと言えば戯曲にあることを役としてやることだけ、シンプルでいいんだけどどうしても私がやる時は飾りがちになっちゃうような気もする
または何もしなさすぎるっていうのはあるよね

声優だからこそ、セリフしか無いけどそのセリフは「なんのために」「何が目的で」言われてるかを表現してあげないと

簡単に感情表現って言うけど、じゃあ感情表現って?
その感情を表現する
ってその感情の目的とかまで掘り下げてるかっていうと、そうじゃなくて
こういう感情です!になっちゃったりする人もいるよね

それは記号的な表現で、浅くて
でも、みんなやりがち
だから、みんな表現が同じになるのかな?、と

[舞台の上では行動しなければならない。行動、能動性、これこそドラマ芸術、俳優の技術の礎である。<ドラマ>という言葉自体、古代ギリシア語では<実現されつつある行動>を意味する。ラテン語ではアクチオという言葉がこれに相当する。
アクトを語根にもつこの語はアクチーヴノスチ(能動性)、アクチョール(俳優)、アクト(行動、幕)といったロシア語にも入り込んでいるものだ。
つまり、舞台のドラマとはわれわれの目の前で実現されつつある行動(ジェイストヴィエ)であり、舞台に登場する俳優は行動する者(ジェイストヴーユシチー、登場人物)となるわけだ]

これが抜けると一気にセリフが無いと役として画面外とかで行動してるってことが抜け落ちちゃうよね

[不動でいても行動することは可能だ。
ただし、それは目に見える形、つまり肉体的なものでなく、内面的、つまり心理的意味においてだ。]

だから「間」も行動なんだよね
お休みや、パク合わせじゃなくてさ

[しばしば肉体的な不動性は張り詰めた内面の行動に由来することがあり、芸術創造においては特に重要で、興味深いことだ。芸術の価値はその精神的内容によって決まる。そこで私は先の公式をいささか修正してこう言い換えよう。
舞台の上では、内面的かつ外面的に行動することが必要である、と
舞台創造と芸術の能動性と行動力を高めるという、われわれの芸術の基本の一つはこれによって達成される]

私これの掘り下げが浅いせいで
台本に書いてあるから、絵がそう動いてるから
ってことをやっちゃいがちだからもっと流れとそのシーンの意味も内面ももっと考えていきたいな、と