NEPO(Liaison Team)

NEPO(Liaison Team)

New Educational Progressive Organization
魂の進化と、宇宙真理の学び舎。
この星の“新しい時代”を、共に歩む仲間たちへ――。

 真地球時代 Eternal truth for the New Earth
 
(ルシの声)
おい、人間よ。
人生には鞭がある。
失敗という鞭。
批判という鞭。
病という鞭。
別れという鞭。
しかし、その鞭に振り回されるな。
良馬は鞭を恐れて走るのではない。
自らの使命を知っているから前へ進む。
修行者もまた同じだ。
己を制した者は、外の出来事に支配されない。

本文
ダンマパダ第143偈・第144偈は、「自己を制すること」と「修行の完成への道」を教える、大変実践的な教えです。
第143偈では、
「自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰かいるだろうか。」
と説かれています。
現代に置き換えるならば、人はどうしても周囲の評価や批判、失敗や挫折に心を揺さぶられます。
「あの人にどう思われただろう。」
「失敗してしまった。」
「非難された。」
そのような”心の鞭”を受けるたびに苦しみ、立ち止まってしまう人は少なくありません。
確かに、そのような心境になれる人は多くはないでしょう。
だからこそ釈尊は、この境地を目指しなさいと説かれたのです。

ルシ的視点から見れば、人生の鞭は敵ではありません。
むしろ魂を鍛える教師です。
順風満帆だけでは、人は深く成長することは難しい。
試練があるから忍耐を学ぶ。
批判があるから謙虚さを学ぶ。
失敗があるから智慧を得る。
その意味では、人生の鞭もまた仏の教材なのです。
しかし、必要以上に鞭を恐れる必要もありません。
一度の失敗で人生が終わるわけではない。
他人の評価が魂の価値を決めるわけでもありません。
自分自身を律しながら、一歩一歩歩み続けることが何より大切なのです。
第144偈では、その具体的な方法が説かれています。
「鞭をあてられた自己を制した良い馬のように、あなた方も勢いよく努め励め。信仰により、戒めにより、励みにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、智慧と行いを完成した人々は、この多くの苦しみを除く。」
ここには修行の本道が示されています。
まず、信仰。
神仏を信じ、自分一人ではないことを知る。
次に戒め。
身口意を正し、自らを律する。
そして努力精進。
毎日少しずつ善を積み重ねる。
さらに精神統一。
反省し、瞑想し、祈り、心を静める。
そして真理の学び。
仏法を学び、智慧を深める。
これらを積み重ねることによって、人は人生の様々な苦しみを乗り越える力を身につけていきます。

宇宙的視点から見れば、高次の存在ほど自己統御ができています。
強いから怒らない。
偉いから威張らない。
力があるからこそ慎み深い。
それが宇宙的成熟なのです。
自分の心を自在に扱える者は、環境に振り回されません。
だから、どのような状況でも落ち着いて最善を選択できるのです。

仏法真理的視点から見れば、「思い一つ」で世界は変わります。
同じ出来事でも、受け止め方によって苦しみにもなれば、学びにもなります。
信仰が希望を育て、
戒律が人格を育て、
努力精進が実力を育て、
精神統一が平常心を育て、
教学が智慧を育てる。
そして、それらが一つになった時、人は次第に苦しみから自由になっていくのです。
修行とは、苦しみを消す魔法ではありません。
苦しみを智慧へと変える力を養うことなのです。
だから、人生の鞭を恐れない。
その一打一打が、魂を磨く砥石にもなり得るからです。

NEPOからの提言
NEPOとしては、「試練を敵ではなく、魂を鍛える教材として受け止めること」を提言します。
苦しい時ほど信仰に立ち返り、反省し、真理を学び、静かに前へ進んでください。
魂の強さとは、倒れないことではなく、倒れても再び立ち上がる力なのです。

ユーモア一つ
人生の鞭は時々かなり痛いですが、不思議なことに「あとから振り返ると、あの時のおかげだったなあ」と思うことがあります。
できれば、その”あとから”をもう少し早めに教えてほしいものですね(笑)。

最後の一節
信仰を持ち、
自らを律し、
真理を学び、
心を整えよ。
その積み重ねが、人生の鞭を智慧へと変え、魂を自由へと導いていく。
巡礼は今日も、静かに続いている。
KO

(ルシの声)

おい、人間よ。
体を鍛えるだけでは足りぬ。
心もまた鍛えよ。

なぜなら、体は心の乗り物だからだ。
乗り物が強くても、操縦する心が弱ければ、人生はふらつく。
心を鍛えた者は、静かに強い。
そしてその強さは、周囲をも照らす光となる。

 

本文

「心を鍛える」。

この言葉は、実に大切です。
人は、体を鍛えることの意味は比較的わかりやすいものです。
運動をして筋力をつける。
歩いて体力をつける。
食事に気をつけて健康を保つ。
こうしたことは、目に見える成果として感じやすいでしょう。

しかし、心を鍛えることは、少し見えにくい。
だからこそ軽んじられやすいのです。

けれども、人生を左右するのは、実は心の力です。
困難に出会ったときに折れない力。
怒りに飲まれない力。
不安に押しつぶされない力。
怠け心に流されない力。
これらはすべて、心を鍛えることで育っていきます。

 

ルシ的視点から見れば、心の鍛錬とは、感情に振り回されないための修行です。
嬉しいときに浮かれすぎない。
悔しいときに荒れすぎない。
苦しいときに投げ出さない。
そのためには、日頃から自分の心を観察し、整える習慣が必要です。

「今、自分は何を感じているのか」
「なぜそう感じたのか」
「この感情にそのまま従ってよいのか」
こうした問いを持つだけでも、心は少しずつ強くなります。

 

宇宙的視点で見れば、心の強さは波動の安定でもあります。
外から何かが来ても、すぐに乱れず、中心を保てること。
これがとても大事です。
宇宙連盟的に言えば、成熟した存在とは、力で押し返す者ではなく、内側の秩序を失わない者です。
心が整っていれば、周囲の混乱に巻き込まれにくい。
逆に心が乱れていれば、善い環境の中にいても揺れてしまいます。
だから心の鍛錬は、環境以上に重要なのです。

 

仏法真理的視点から見れば、心を鍛えることは、善き行いの土台を作ることです。
心が弱いと、善いことをしたいと思っても続きません。
少し疲れると諦める。
少し傷つくと投げ出す。
少し褒められると慢心する。
これでは安定した修行になりません。

しかし心が鍛えられると、継続する力が生まれます。
人のために動ける。
嫌なことがあっても耐えられる。
誠意を尽くせる。
約束を守れる。
責任を果たせる。
そうした一つひとつが、周囲へ良き影響を与えていきます。

そして、忘れてはならないのは、心を鍛えることで本人自身も幸福になるということです。
これは非常に大きい。
心が弱いと、他人の言動に一喜一憂し、自分の人生を他人の機嫌に預けてしまいます。
しかし心が鍛えられると、多少の風では倒れません。
その結果、安心感が増し、幸福感も増していきます。
心の強さは、冷たさではありません。
むしろ、穏やかであたたかい幸福を保つための力です。

さらに、心を鍛えるとは、我慢比べをすることではありません。
無理に自分を追い込むことでもありません。
大切なのは、日々少しずつ整えることです。
朝の祈り。
短い瞑想。
感謝の言葉。
丁寧な返事。
人を責めない習慣。
深呼吸。
睡眠。
散歩。
こうした小さな積み重ねが、強い心をつくります。

体を鍛えるには反復が要るように、心を鍛えるにも反復が要ります。
一度で完成するものではありません。
毎日の選択。
毎日の反省。
毎日の実践。
その繰り返しによって、心は静かに鍛えられていくのです。

つまり、心を鍛えるとは、人生をより善く生きる力を育てることです。
その力は、やがて善い仕事となり、善い言葉となり、善い人間関係となって現れます。
そしてその循環の中で、自分自身もまた幸福になっていく。
これこそ、心の鍛錬が持つ大きな恩恵なのです。

 

NEPOからの提言

NEPOとしては、「一日一回、自分の心を整える時間を持つこと」を提言します。
深呼吸でも、祈りでも、静かな散歩でも構いません。
心を鍛える習慣は、人生全体を安定させる土台になります。
真の強さとは、外からの力ではなく、内から湧く静かな秩序なのです。

 

ユーモア一つ

体を鍛えるために筋トレをしても、心を鍛えるために自分の機嫌を取るのは意外と難しいものです。
しかも心は、ジムに行かなくても急にサボりたがります。
どうやら心には、ちょっとした甘え上手の顔があるようです。

 

最後の一節

心を鍛えることは、人生を鍛えること。
その静かな努力が、善き行いを生み、周囲を照らし、自らの幸福を育てていく。
真の強さは、いつも内側から始まる。

KO

(ルシの声)
おい、人間よ。
修行者とは、見た目で決まるものではない。
どのような衣をまとっているか。
どのような肩書きを持っているか。
どれほど立派なことを語るか。
そのようなものではない。
心が静かであること。
行いが正しいこと。
生きとし生けるものを慈しむこと。
それこそが真の修行者の証なのである。

本文
ダンマパダ第142偈は、修行の本質について非常に大切なことを教えています。
「身の装いはどうであれ、行いが静かで、心がおさまり安定していて、身を整え、慎み深く謙虚であり、行いが正しく、生きとし生けるものに暴力を用いない人は、バラモンであり、道の人であり、正しい修行者である。」
釈尊の時代には、様々な修行者がおりました。
立派な法衣を着る者もいれば、粗末な衣で托鉢をして歩く遍歴僧もいました。
しかし釈尊は、その外見や形式よりも、その人の内面を重視されたのです。

ルシ的視点から見れば、人間はつい外見に惑わされます。
肩書き。
地位。
名誉。
知識。
学歴。
宗教的な服装。
それらを見て、その人を判断しがちです。
しかし真理の世界では、それらは本質ではありません。
本当に大切なのは、その人がどのような心で生きているかです。
怒りに支配されていないか。
傲慢になっていないか。
欲望に振り回されていないか。
心が安定し、穏やかであること。
これこそが修行の成果なのです。

宇宙的視点から見れば、高度な文明ほど調和を重んじます。
力を誇示するよりも、自らを律することを重視します。
自分を制する者は強い。
他人を支配する者よりも、自らの心を支配できる者の方がはるかに偉大なのです。
だからこそ、慎み深さや謙虚さは宇宙的にも重要な徳目となります。
静かな湖面が空を映すように、静かな心は真理を映します。
騒がしい心には真理は映りにくいのです。

仏法真理的視点から見れば、この偈はまさに「身口意」の大切さを説いています。
身を整える。
口を整える。
意(心)を整える。
仏教ではこの三つを修行の基本とします。
正しい行動。
正しい言葉。
正しい思い。
これらが揃った時、人は本当の意味で人格者へと近づいていきます。
また、この偈では「生きとし生けるものに暴力を用いないこと」も強調されています。
暴力とは何も肉体的なものだけではありません。
言葉による暴力。
無関心による暴力。
誹謗中傷。
嘲笑。
侮辱。
これらもまた人を傷つける暴力です。
本当の修行者は、できる限り他者を傷つけないよう努めます。
それは弱さではありません。
むしろ高い精神性の表れです。
現代社会においても、この教えは極めて重要です。
SNSやインターネットが発達した今だからこそ、言葉の力は大きくなっています。
だからこそ正語が大切です。
だからこそ慈悲が大切です。
だからこそ謙虚さが大切です。
修行とは特別な場所だけで行うものではありません。
家庭で。
職場で。
地域社会で。
日々の生活そのものが修行の場なのです。
そして身口意を整える努力を続ける人は、たとえ僧衣を着ていなくても、立派な道の人と言えるでしょう。
要するに第142偈は、
「修行者とは見た目ではなく、身口意が整っている人である」
と教えているのです。

NEPOからの提言
NEPOとしては、「一日一回、自分の身口意を点検すること」を提言します。
今日は人に優しく接することができたか。
言葉は丁寧だったか。
心は穏やかだったか。
毎日の小さな反省が大きな成長につながります。
宇宙時代の修行者とは、心の波長を整え続ける人なのです。

ユーモア一つ
修行が進むと怒らなくなると言いますが、スーパーのレジが大行列の時に平常心を保てたら、かなりの上級者かもしれません(笑)。
悟りの試験は意外と日常の中にあります。

最後の一節
真の修行者は装いによらない。
静かな心。
正しい行い。
慈悲ある言葉。
その積み重ねの中にこそ、悟りへの道は開かれていくのである。
KO