あなたの手が、震えていた。
カップを持つ指先が、
まるで冬の風みたいに冷たくて、
私は何も言えなかった。
アールグレイ。
紅茶の香り。
ベルガモットの柑橘が、
部屋の中で優しく揺れていた。
穏やかすぎて、逆に怖かった。
だって、その香りはいつも、
別れの予感と一緒にやってくるから。
ねぇ、覚えてる?
初めて二人で紅茶を淹れた朝。
あなたがミルクを入れすぎて、
私が笑いすぎて、
テーブルにこぼれたあの跡。
まだ残ってるの。
木目の隙間に、
私たちの時間が染みついてる。
でもね。
今、目の前にいるあなたは、
あの日のあなたじゃない。
同じ笑顔なのに、どこか違う。
まるで、別の誰かを演じてるみたいに。
「冷めるよ」
あなたはそう言った。
でも、本当に冷めているのは紅茶じゃない。
心の方。
ずっと前から、冷めてたんでしょ。
アールグレイの香りが、
私を包み込むたびに、
胸が締めつけられる。
この香りを愛していたはずなのに。
今は、ただの拷問。
ねぇ、どうして?
どうして私たちは、
こんなに静かに壊れていくの?
叫ぶこともなく、泣くこともなく、
ただ、香りだけが部屋に残ってる。
あなたの声が遠い。
壁の向こうから響いてくるみたい。
「仕事が忙しくてさ」
「疲れてるだけだよ」
そう言いながら、
目の奥がもう、私を見ていなかった。
紅茶の表面に映るあなたの顔が揺れている。
嘘みたいに、儚く。
そして、どうしようもなく美しい。
私、壊れそう。
本当に壊れそう。
だって、
あなたがまだここにいるのに、
もう、いないんだもん。
アールグレイの香りがするたびに、
私は過去の私になる。
あなたを愛していた私。
あなたに笑っていた私。
あなたの帰りを待っていた私。
全部、まだここにいる。
でも、もう届かない。
「新しい香水買った?」
あなたが訊いた。
違う。
これは紅茶の香り。
あなたがくれた香り。
まだ、捨てられなくて。
ねぇ、あなた。
あなたが他の人と歩いているの、
見たよ。
駅のホームで、
夕焼けの中で、
同じように笑ってた。
同じ声で「アールグレイが好きなんだ」って
言ってた。
どうして?
どうしてそんな簡単に、
思い出を上書きできるの?
私の中では、まだ終わっていないのに。
あなたの中では、もう消えてるの?
カップの底に残った紅茶を見つめながら、
私は思った。
この苦さは、もうあなたのせいじゃない。
私の執着。
私の愚かさ。
私の愛の残骸。
ねぇ、アールグレイ。
あなたは誰を想って香るの?
私?
それとも、あの人?
香りが鼻の奥を刺して、涙が出た。
甘くて、苦くて、痛い。
香りが記憶を掘り起こして、心を裂く。
それでも私は、カップを口に運ぶ。
冷めきった紅茶の味が、現実を教えてくれる。
もう、終わりなんだって。
窓を開けると、
風が吹き込んだ。
カーテンが踊る。
机の上のカップが揺れる。
その中で、アールグレイの香りが薄れていく。
ねぇ、お願い。
せめて最後くらい、
あなたの声で呼んで。
名前を。
一度でいい。
もう一度だけ。
……沈黙。
時計の針が動く音が、やけにうるさい。
秒針が、心臓を刺すみたいに。
紅茶を流しに捨てた。
茶葉が水に溶けていく。
それがまるで、私の心みたいで。
形を保てず、流されていく。
ねぇ、知ってた?
アールグレイってね、
「別れを告げる香り」って
呼ばれることがあるの。
本当かどうかは知らないけど、
今なら、わかる気がする。
香りが消えるとき、
愛も、終わるんだ。
カップを棚に戻して、
電気を消す。
部屋は暗く、静かで、
でも、まだ少しだけ、香っていた。
アールグレイ。
あなたがくれた香り。
私が愛した時間のすべて。
