夜の吉原は、灯籠の淡い光が揺れるたびに、
まるで夢の中に迷い込んだかのようだった。
花魁道中が通ると、通りの喧噪が一瞬にして消え、
ただその華やかさに目を奪われる。
その日も、揚羽(あげは)は、
ひときわ美しい姿で花魁道中に臨んでいた。
紫の小袖に金糸で刺繍された蝶が舞う帯、
黒髪にはきらびやかな簪(かんざし)が
いくつも揺れている。
揚羽は、吉原一の花魁として、
男たちを虜にし続けてきた。
しかし、その目はどこか冷たかった。
自分を飾る美しい衣装も、
心を寄せてくる男たちの言葉も、
揚羽にとってはただの「役目」を
果たすための道具に過ぎなかったのだ。
「こんな場所で、心なんて動かせるものか――」
揚羽はそう心の中で呟きながら、
店へ戻る。
そこに、一人の武士が座っていた。
「お前が揚羽か」
そう言い放った男は、
粗野で無愛想な声だったが、
どこか品があった。
年の頃は二十代後半、
黒い羽織の隙間から見える立派な刀が、
その身分の高さを物語っている。
「お客様、何用でこちらへ?」
揚羽は冷ややかに答えた。
彼女の声には甘さの欠片もない。
それでも、その武士は眉一つ動かさず、
彼女をまっすぐ見つめた。
「用があるから来たわけではない。
ただ退屈だったのだ。どうせくだらない女だろう
と思っていたが、噂ほどではなさそうだな」
その言葉に、揚羽の中で何かが揺れた。
武士は何もかも見透かしたような目をしている。
「お言葉ですが、退屈をしのぐために
来られるような場所ではありません。
それとも、貴方様のような偉い方には、
私たちのような者が
慰めの玩具に見えるのでしょうか?」
挑発的な言葉を返す揚羽に、
武士はふっと笑みを浮かべた。
「ふん、口だけは達者だな。それでこそ、
この店の評判を支える花魁というわけか」
揚羽は彼の言葉に苛立ちを覚えた。
どこまでも自分を値踏みする
ような態度が許せない。
しかし、武士の眼差しは、
その苛立ちの裏側にある
何かを見抜いているようだった。
「では、試してみてはいかがですか?」
揚羽は静かに盃を手に取り、
武士の前に差し出した。
「この盃に、
貴方の本音を注いでみてくださいな。
それができる方なのか、
見極めさせていただきます」
武士は一瞬驚いたようだったが、
すぐに鋭い目で揚羽を見返した。
「面白い。その挑発、受けてやろう」
彼は盃を受け取り、静かに酒を注いだ。
そしてそのまま、一気に飲み干す。
「俺の本音だと?そうだな……俺は将軍だ。
江戸を治める将軍、徳川家光だ」
その場が静まり返った。
揚羽を取り巻く空気が一瞬にして張り詰める。
「……何を冗談を」
揚羽の声は震えていた。
だが、家光の表情は真剣そのもので、
冗談を言う様子ではない。
「お前のような女に、本当の俺が
見えるのか試したかっただけだ。
ここで俺が誰であろうと、関係ないだろう?」
家光の言葉に、
揚羽は怒りを抑えきれなくなった。
「関係ないですって?貴方が誰であろうと、
ここでの貴方はただの一人の客です!
身分の高い低いで人を
見下すような真似をする方なんて――」
揚羽が言い終わる前に、
家光は彼女の手を掴んだ。
その手は大きく、
そして驚くほど温かかった。
「俺は見下しているわけじゃない。
ただ……俺の生きる世界では、
誰も本当の俺を見ようとしない。
それが退屈なんだ」
家光の言葉には、
不器用ながらも真摯さがあった。
その眼差しに、揚羽は一瞬戸惑った。
「本当の貴方……?」
揚羽は自分の胸が高鳴っているのを感じた。
初めて、自分の前で鎧を脱ぎ捨てた男がいる。
この瞬間、
彼女は家光がただの「将軍」ではなく、
一人の「人間」として目の前にいることを悟った。
「ふん、俺に惚れるなよ。
お前のような女が、
俺の人生に入り込む余地などないのだからな」
そう言い放ちながらも、
家光の声には微かな優しさが混じっていた。
揚羽は小さく微笑んだ。
「心配ご無用。
私も、貴方のようなつまらない男には
興味がありませんから」
そう言いつつも、彼女の胸の中には、
甘くて苦い何かが芽生え始めていた。
この出会いが、
吉原という小さな世界と、
江戸の頂点に立つ男をつなぐ、
奇跡の始まりになるとは、
誰もまだ知らなかった――。