2023年5月5日22時半頃、父を実家に連れ帰った。


気がつくと夕ご飯も食べていなかった。


「お父さん、何か食べるか?」(私)


「いらねえ。」(父)


警察署から実家迄の道中のコンビニで買ったおにぎりを父は食べようとしなかった。


「じゃあ、早く寝ようか。」(私)


父を2階の寝室へ連れて行って寝かすと、朝4時に起きて長野を出発し、全く休む暇も無かった私は、遅い夕食を済まし、そのまま1階の居間で横になった。


1時間ぐらい経っただろうか。階段を降りてくる足音が聞こえて来た。


「お母ちゃんは何処に行った?」(父)


「今日は警察署に泊まる事になったから戻らないよ。」(自分)


「ふーん。」(父)


そしてまた寝室に戻って行った。


5分後、また父が降りて来た。


「お母ちゃんは何処に行った?」(父)


「さっき言った通り、今日は警察署に泊まる事になったから戻らないよ。」(自分)


「ふーん。」(父)


こんなやり取りが5回ほど繰り返したが、遂に父は最後には寝室には戻らず、居間に座り込んだ。


「おまえのお母ちゃんは何処に行った?」(父)


「お父さんがぶったり蹴ったりするので、今日は帰りたく無いって。」(私)


「そんな事してねえぞ。」(父)


そんなやり取りを1時間ほど繰り返しただろうか。


「おまえのお母ちゃん」と言われ、私は徐々に腹立たしい思いとなった。


「あと、自分のお母さんはここに居る!」


私は仏壇を指差して言った。


現在の「母」は、実は継母である。産みの母親は私が4歳の時に他界した。その時、父も悲しんだはずだ。


まだ初春の深夜、田舎から上京して来た父方の祖母に病院に連れて行かれた。入った病室で父が立ち尽くして泣いていた。父が泣く姿を初めて見て私は戸惑った。


そして、ベッドの上にシーツにかけられた何かがあった。シーツの真ん中が盛り上がっているのが不思議でならなかった。


シーツを捲ると「母」の白い顔とお腹の上で手を合わせている姿が現れた。


私はなぜ、「母」が横たわっているのか?そしてなぜ、父が泣いているのかが分からなかった。だから泣く事は無かったし、周りの人たちが泣いているのが不思議でならなかった。


父は悲しかったはずだ。あの時、一つ年上の姉と私を遺して逝ってしまった母への悲しみは、いかに深かったであろうか。にも関わらず、父はこう言った。


「そんな所に居ねえぞ。」(父)


私はそれを聞いてショックだった。


(忘れているのだ!)


私は仏壇に並んでいる位牌の中から「母」のものを取り出し、こう父に言った。


「ここに何と書いてある?これはあなたの元妻、僕の産みの母じゃ無いのか?」(私)


「知らねえなあ。」(父)


「あなたは、この人が亡くなる時に泣いていたはずだ。だったら、今の母をこの人の分まで大切にしなければならないだろ?叩いたり蹴ったりしてはダメだろ!」(私)


父はしばらく黙っていた。


「あはは、息子に怒られた。」(父)


これで分かって貰えたかと思ったが、その後も父は数分間隔で「お母ちゃんは何処へ行った?」と繰り返した。


遂に私は堪えきれず父の胸ぐらを掴んでこう言った。


「僕のお母さんは55年前に死んだんだよ!なんで覚えていないんだ!」(私)


少し間を置いて、父がこう言った。


「お前、家に帰って良いぞ。」(父)


(父が正気に戻ったのか?)


私は戸惑った。


「母」の事を本当に忘れているのかどうか分からない。本当は忘れておらず、忘れた振りをしているのでは無いか?


その後、父は冷蔵庫からビールを持ち出し、飲み出した。


私も疲れからうとうとし、気がつくと朝5時頃になっていた。


父は日課である掃除をし始めて、私は複雑な思いでそれを見守っていた。


やっと長い一晩が明けたのである。