愛する長女犬は闘病の末に亡くなりました。
自宅での看病をして
自宅で亡くなりました。
長女犬が苦しむ姿をずっと見ていて
辛かったのですが
寝不足や疲れも気にならないくらい
その子が愛おしく
変われるものならと何度も思いました。
一瞬そばを離れたすきに
あの子は逝ってしまいました。
亡くなってから5年ほど経ちますが
こうしてブログを書いていても
嗚咽してしまうほど愛していました。
もちろん今でも・・・
心から愛しています。
旅立って
真っ先に出てきた言葉
『(もっと楽に治療をさせてあげられなくて)ごめんね』
『(もっと別の選択が沢山あったのに苦しませて)ごめんね』
でした。
小さい頃からアレルギー体質で
病院のお薬を飲むことが多かった長女犬
まだ若いうちに大きな病気をしてしまいました。
飼い主としてはやはり
同じ結果が待っているなら
強いお薬はできるだけ飲ませたくない
体に負担を掛けないで
出来るだけ自然に・・・
いかに愛犬を苦しませずに逝かせてあげられるか
といったことを願っておりましたが
日々模索しながらも症状はどんどん進み
何が正しくて何をすればこの子が少しでも楽になるのか
どうすればこの子がもう少し眠れるのか
もっとゆっくり考えさせてという心の叫び
衰弱する我が子を前に
なすすべがなかった私でした。
あんなに愛していた長女犬が
なぜ苦しまなければいけなかったのか
亡くなった直後から
あふれ出る感情を止めることが出来ず
大きな声で嗚咽し 顔をくちゃくちゃにして
床を叩きつけておりました。
夜になっても電気もつけることを忘れ
食事も喉を通りませんでした。
当時私のそばにもう一頭いた甘えん坊の長男犬さえも
ごはんの時間やお散歩の時間が来ても
私に声をかけることすらためらうほど
私から離れたところで私をじっと見つめていました。
たとえ私自身の成長や学びのために
避けられない試練だと思っても
まるで長女犬が私のために犠牲になったようで
自分を許せない気持ちも出てきました。
長女犬が居なければ生きていけないと
何度も叫びました。
最初の半年くらいは
誰にも会いたくなく誰かに声を掛けられれば
とめどなく溢れる涙や感情。
外に出ることさえ嫌でたまりませんでした。
愛する家族を喪失したことによる悲嘆から這い上がるまで
むさぼるようにペットの死後に関する本をんだり
同じような境遇、体験をなされた方のブログを尋ねたり
何も手につかないでぼーっとする時間も沢山ありました。
死生観においても自分と違う価値観の人の意見は
全く心に響いても来ません。
(なぜなら、人の数だけ、国の数だけ信仰もあり
どの信仰も正しいとその道の人がいうならば
私がしっくりとくる考え、方法で何も問題がないのだ
という事を愛犬は教えてくれたのです。)
そして
一日中長女犬のことばかり考えていても
それを決して恥ずかしいとか
悪いことだとは思えませんでした。
それで私自身が
心落ち着くのであればそうしたかったのです。
ありのままの自分でいるときが
一番あの子を感じることが出来たのです。
光に還った愛犬はその時その時の私に合った
人たちとめぐり合わせて
沢山の気づきをもたらしてくれました。
辛さを十分理解してくれる人が一人でもいれば
辛さには変わりませんが
悲しみの涙もいつしか
感謝に変わるときが自然とやってきます。
愛する子を思い出しながら
『ごめんね』が『ありがとう』に変わるまで
浄化の涙は沢山流して差し上げてほしいと思います。
想いが今必要な方に届きますように。

