そしてー
自分の事が大事にできない人は
他人の事も大事にできないー
未婚者には、他人に対しては
これはその通りだ。
他人に対して境界線を持って他人と付き合っていく事に対しては実に当てはまる言葉だ。
しかし問題は
いざ他人と衣食住を共にする
結婚生活
恋人達の共同生活において
この言葉は経験上
全く意味をなさない。
ただ恋愛感情を持たない異性との
共同生活においては当てはまる。
それ以外ではこの言葉は成り立たない
恋人との共同生活において
夫婦の結婚生活においては
どちらかが折れなければ
自分を犠牲にしなければ
成り立たない背景が必ず存在する。
しかしこれも
相手に恋愛感情が冷め
現実的な共同生活に上手く変更できる者同士であればよいが
そもそも一生生活を共にしたいと思える相手に対して「他人」と同じような付き合いに変換できる方が
私にとっては偉業である。
でも世の中にはなんとなく付き合って
なんとなく別れるカップルもいる
しかしなんとなくカップルなんて
私は全く興味ないからどーでもいい。
けどなんとなくカップルが一番上手くいくんだけど。。
相手を自分の鏡にしないぶんね
お互いの違いもそんなに気にならないから。
それはそうと
はたまた子を持つ親においては
人身御供、自ら親が百%犠牲になる。
でもそれは他人から見た上での
犠牲的精神に見える行為であり
当の親は子どもの幸せが親の幸せに結びつくので犠牲などとは思わない
子どもの為…とは思っていない
当たり前のように子の幸せが自らの幸せに繋がっている
実はここには
かなり身勝手な言い分が存在している事に気づくだろうか?
この世は絶対的なバランスで成り立っていて、こちらが前に立たなければ
あちらは前に立てるのだ
社会的な体裁とかモラルは
人と人の間をとって存在するから
そんなモラルのある付き合いには
何かが大きく変化する事も無ければ
人を本当に救う事もない。
これは実際にあった話だが
昨日までなんとなく一緒に遊んでいた知人の友人が次の朝方
頑丈な電気コードで首を吊って自殺していた
はて?
これは知人が自分の物差しで終始生きてきた手前、相手の苦悩を全く知らずに起きた
最悪な事象だ。
ちょっと皆が知っている事例で言えば
XJapanのヒデが自殺し(本当のところは解らないが)同じバンドメンバーのトシさんが宗教に入ってしまった件だ
自分の為に生きた結果が
大切な仲間に最悪な結果を与えてしまっていた現実を前にしての
苦悩だったはずである。
私の親はかなり身勝手に生きてきたし、片方は未だに身勝手に生きていて、呆れるし理解など出来てない
それにここに書けないような結果が
身勝手に生きていて最悪の結果を招いた事も事実であり
自分の為に生きてる結果とは
私にとっては周りに迷惑極まりない結果しかを起こさない教訓のように
なっている。
自慢ではないが
親戚の叔母はいつ見ても
家庭の愚痴を私にはこぼしている。
子どもは二人共かなり出世していて
片方は大企業の重役をやっていて、片方は、あるテレビ局に携わっている人だ
私は成功してる人の話なんて聞きたくないのであえて深く聞き返さない
で、その息子二人の成功の上には
いつ見ても苦労の絶えない叔母がいる
叔母は息子の為にと
子どもにやりたい事をさせたい一心で
お金のない家庭で昼夜晩と
身体が壊れるまで働き続けたらしい
……これでも
自分を大事にできる人が
他人を大事にできると
言えるのだろうかー?
私には
たぶん一生かかっても
知らない言葉のひとつである
私の言葉は
自分を大事にさせてもらえる環境で
他人を犠牲にしている。
それが私の経験上での言葉なのだ。
だから私も叔母と同じように
借金苦の家庭で育ちながらも
若い頃から身を犠牲にし
自分の幸せを棄てて
兄弟姉妹には笑顔を作り
やりたい事をできる環境を作ってやれた。
勿論、家庭では私が何かをしてやったなんて態度など永年とらなかった
それこそ自分の幸せを棄ててきたなんて事を兄弟姉妹が知れば
私にやめて欲しいと思うだろうからだ
しかし私は自分の幸せより
兄弟姉妹に好きな道を歩んで欲しかった
それは私が大切な人にはそうされたいという願望があったのかもしれない。
が
現実は
私、私、俺、俺、
で、溢れかえっている
そして
いい歳になって我が身の幸せを
掴みたくなっても
それは大きくなりすぎていて
なんとも言い表せない事態を
招いていたのである
私よ……アーメン⛪
ちーん
自分の事が大事にできない人は
他人の事も大事にできないー
未婚者には、他人に対しては
これはその通りだ。
他人に対して境界線を持って他人と付き合っていく事に対しては実に当てはまる言葉だ。
しかし問題は
いざ他人と衣食住を共にする
結婚生活
恋人達の共同生活において
この言葉は経験上
全く意味をなさない。
ただ恋愛感情を持たない異性との
共同生活においては当てはまる。
それ以外ではこの言葉は成り立たない
恋人との共同生活において
夫婦の結婚生活においては
どちらかが折れなければ
自分を犠牲にしなければ
成り立たない背景が必ず存在する。
しかしこれも
相手に恋愛感情が冷め
現実的な共同生活に上手く変更できる者同士であればよいが
そもそも一生生活を共にしたいと思える相手に対して「他人」と同じような付き合いに変換できる方が
私にとっては偉業である。
でも世の中にはなんとなく付き合って
なんとなく別れるカップルもいる
しかしなんとなくカップルなんて
私は全く興味ないからどーでもいい。
けどなんとなくカップルが一番上手くいくんだけど。。
相手を自分の鏡にしないぶんね
お互いの違いもそんなに気にならないから。
それはそうと
はたまた子を持つ親においては
人身御供、自ら親が百%犠牲になる。
でもそれは他人から見た上での
犠牲的精神に見える行為であり
当の親は子どもの幸せが親の幸せに結びつくので犠牲などとは思わない
子どもの為…とは思っていない
当たり前のように子の幸せが自らの幸せに繋がっている
実はここには
かなり身勝手な言い分が存在している事に気づくだろうか?
この世は絶対的なバランスで成り立っていて、こちらが前に立たなければ
あちらは前に立てるのだ
社会的な体裁とかモラルは
人と人の間をとって存在するから
そんなモラルのある付き合いには
何かが大きく変化する事も無ければ
人を本当に救う事もない。
これは実際にあった話だが
昨日までなんとなく一緒に遊んでいた知人の友人が次の朝方
頑丈な電気コードで首を吊って自殺していた
はて?
これは知人が自分の物差しで終始生きてきた手前、相手の苦悩を全く知らずに起きた
最悪な事象だ。
ちょっと皆が知っている事例で言えば
XJapanのヒデが自殺し(本当のところは解らないが)同じバンドメンバーのトシさんが宗教に入ってしまった件だ
自分の為に生きた結果が
大切な仲間に最悪な結果を与えてしまっていた現実を前にしての
苦悩だったはずである。
私の親はかなり身勝手に生きてきたし、片方は未だに身勝手に生きていて、呆れるし理解など出来てない
それにここに書けないような結果が
身勝手に生きていて最悪の結果を招いた事も事実であり
自分の為に生きてる結果とは
私にとっては周りに迷惑極まりない結果しかを起こさない教訓のように
なっている。
自慢ではないが
親戚の叔母はいつ見ても
家庭の愚痴を私にはこぼしている。
子どもは二人共かなり出世していて
片方は大企業の重役をやっていて、片方は、あるテレビ局に携わっている人だ
私は成功してる人の話なんて聞きたくないのであえて深く聞き返さない
で、その息子二人の成功の上には
いつ見ても苦労の絶えない叔母がいる
叔母は息子の為にと
子どもにやりたい事をさせたい一心で
お金のない家庭で昼夜晩と
身体が壊れるまで働き続けたらしい
……これでも
自分を大事にできる人が
他人を大事にできると
言えるのだろうかー?
私には
たぶん一生かかっても
知らない言葉のひとつである
私の言葉は
自分を大事にさせてもらえる環境で
他人を犠牲にしている。
それが私の経験上での言葉なのだ。
だから私も叔母と同じように
借金苦の家庭で育ちながらも
若い頃から身を犠牲にし
自分の幸せを棄てて
兄弟姉妹には笑顔を作り
やりたい事をできる環境を作ってやれた。
勿論、家庭では私が何かをしてやったなんて態度など永年とらなかった
それこそ自分の幸せを棄ててきたなんて事を兄弟姉妹が知れば
私にやめて欲しいと思うだろうからだ
しかし私は自分の幸せより
兄弟姉妹に好きな道を歩んで欲しかった
それは私が大切な人にはそうされたいという願望があったのかもしれない。
が
現実は
私、私、俺、俺、
で、溢れかえっている
そして
いい歳になって我が身の幸せを
掴みたくなっても
それは大きくなりすぎていて
なんとも言い表せない事態を
招いていたのである
私よ……アーメン⛪
ちーん