「人生の意義、宇宙の意義」のタイトルだけど

実は前回の「何のために生きているのか」の続きです...

長いですが、読んでくれたら嬉しいです




ここからは目的もなく僕の人生観がどのような風景になっているか示そうと思う

なぜなら、人生の目的を問いつめれば、最終的に手段と目的の融合が起きるからだ

つまり、生きている事自体が素晴らしい、楽しいという結論に至るのだ

問題はそこに至る過程である

それが人と違っているからこそ、僕はブログに書く訳だし、他者の人生観を認識できるのだ


どこから書いていけばいいか...キーワードは何個もある

ではキーワードを並べてみよう

多様性、空(仏教)、仏、神、天、中論、法則、宇宙、エントロピー、微分、積分、等号(=)、感情、潜在意識、瞑想、認識、意識、経験、理解、共有、目標、目的、手段...

まだ他にもあるけど、思いつくぐらいだとこれくらい

僕は仏教が好きなので、「仏」から出発しようか


仏教には色々な宗派(浄土宗とか、日蓮宗とか...)があるが、大本を辿ればお釈迦様一人に行き着く

お釈迦様が説いた一番の教えは、何と言っても

「人生は苦である」

ではないだろうか?

その他にも色々大事なことは述べている(縁起の概念など)が

苦をどのように認識するかで苦しいことも苦しくなくなると言っている

人生は苦であるのだから、苦はなくならない

しかし、苦に対する人間の心構えはいくらでも変えられる

その心構えを変えられない状態を、仏教では「煩悩」と呼ぶ

その「煩悩」を吹き消すことが出来ない原因を「無明」と呼ぶ

無明とは、正しい判断が出来ずにいる状態を意味する

また逆に、その煩悩から解法され苦が消滅した状態を「涅槃」と呼ぶ

つまり、仏教の目的は「涅槃」の状態を目指しているということになる


さて「涅槃」とは何だろうか。

僕はずっと前からこの意味が判らなかったが

最近「死と愛」という精神科医のV.E.フランクルが書いた本を読んだときにピンと来ることがあった

それは「涅槃とは内側から見たエントロピーである」という文だ

エントロピーとは物理学用語であり、物事の複雑さ、乱れ具合を表す物理量である

つまりエントロピーが増大する程、物事は複雑に乱れているということ

そして、エントロピー増大の法則という有名な法則があるが

これは、「あらゆる物理現象はエントロピーが増大する方向にしか進行しない」というもの

例えば、容器に入った常温の水に熱い熱球を入れた場合

熱球による水分子の振動は熱球を中心に広がり、容器の水は一定の温度に落ち着くが

逆に、その温まった状態から、熱球に熱が戻っていくという現象は起こり得ないということ

この熱の広がり具合をエントロピー量で表すと、増大する方向にしか現象は進行しないというのである

実は、このことは宇宙現象にも同じことが言える

宇宙は膨張しているというのが、現代の宇宙物理学の常識であるが

これは同時に宇宙全体のエントロピーが増大する方向に宇宙現象が進行していることを意味している

さて、ここで「涅槃」の話に戻るが

「内側から見たエントロピー」とはつまり意識空間から見た物事ということだ

では、外側からみた涅槃とは何か

まさに、エントロピーが増大する宇宙現象そのものだ

ということは、「内側から見たエントロピー」とは意識空間内におけるエントロピーの増大を意味する

ということは、仏教はこの意識空間内におけるエントロピー増大を目指しているということになる

これは何を意味するだろうか

実は、最初の方で述べた「多様性を拡げる」という人生の目的と関連して来る

エントロピーが大きいということは、多様性が高いということだ

このことから、仏教的な見地からも、人生の目的として「多様性」を取り上げる意味が分かって貰えると思う


ところで、仏教には悟りの境地を端的に表現する言葉として「空」という概念を用いてる

原因と結果の縁起の法則からしても、物事には原因と結果しかないのであり、何か特定の実体が存在しているわけではなく、どこまで細かく見ても、原因と結果の相互作用しか存在していないということから、この「空」を究極の法則として位置づけている

この「空」の概念、もともとはインドの僧(龍樹)の「中論」によって提唱された概念だが

考えてみるとかなり深い

どこかの学者がこんなことを言っていた

「空の概念は、あらゆる言葉の抽象化を行ったその極限に位置する概念です」

例えば、パグとか、ダックスフンドとか、セントバーナードとか言うと、みんななんですか?

答えは「犬」ですね

では、犬、猫、馬、羊、猿、とか言うと、みんななんですか?

答えは「ほ乳類」ですね

では、ほ乳類、は虫類、昆虫とか言うと、これらは「生物」ですね

生物、無生物となると、「自然」になるんでしょうか?

もっと、抽象的に捉えると「現象」とか「存在」とかになりますね

その抽象化の極限が「空」であるというのです

おそらく、最後は「有」と「無」の抽象化を行ったのかもしれませんが

「空」とは決して「無」を意味するのではなく、ありとあらゆるものを包括した定義なんです

そして、仏教ではこの空の境地に達すると「慈悲」の精神が生まれると説きます

「慈悲」とは文字通り相手に対する慈しみの心ですね


なぜ「慈悲」の心が発生するのか? これも考えてました


その答えは、他者に対する共感力の究極が「空」によって得られているから「慈悲」が発生するのだと分かりました

共感力とは、相手の立場に立って、自分がその人になった様に考える力ですが

この力に必要なのが、広くて深い「経験」と「知識」です

つまり「空」によってあらゆる物事を認識できる様になった人物は

目の前にいる人間のことなど、完全に自分に投影することができるということです

(そりゃそうです、宇宙を見渡せている人なんですから)

だから「慈悲」が生まれるのだなぁと今は納得しています

そしてこの「慈悲」の境地とはエントロピーが最大限増大した「涅槃」の境地であることも納得できます


まとめると

空の境地と涅槃の境地は、煩悩を吹き消した苦のない境地

これらの境地は最大エントロピー状態で、全事象に認識が渡っている状態

この空の境地に至ることで慈悲が生まれる

慈悲により目の前に人間の気持ちが理解できる

そして、人に尽くす人間になる

という流れになる



では次に「神」のキーワードから出発してみよう

神と言っても色々ある

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、神道など...

一神教であれ、多神教であれ、僕にとっちゃどっちでも良い話

僕は、神様というのは、仏様が自然現象を通して世界に影響を与える力の現れだと認識している

つまり、法と力、仏と神という対応だ

これは法華経の如来神力品に出て来ることだが、如来の神力という概念があるが、仏様(別名:如来)が神様の形態を持って、悩める衆生を様々な方法で救うというイメージだ

この様々な方法を持って衆生を救うというのは、法華経全体で一貫して言われていること(観音菩薩など)だが

何かある一定の形を持たない存在があって、それが時代と場所に合わせて適切な姿になって現れるというものである

中には、全く真逆の姿(天使とか悪魔とか?)となって現れる場合もあるという

僕はこの法華経の考え方が好きだ

南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏とかで、日蓮宗と浄土宗が対立していた時代もあるが

これらも同じで、どちらも人々を救う道のりであることに違いはない

山の頂きに至る道がいくつもあるのと同じだ


仏教の話になってしまった...


でも様は、色々な神様がいたとしても、それらは時代と場所によって適切な教え方がなされているのであり、その表現方法(The God, アラー,アマテラスなど)も異なっているということだけだ



神と仏の関係について述べた

最後はこれらと人間の関係を述べてこのブログは終わりにしたい

「人間とは何だろうか」


僕の答えは「人間とは橋である」


が今のところしっくり来るかな

この「橋」と表現したのは、実は先ほど述べた「空」の言い換えである

「空」と言った所で、伝わりにくいから敢えて「橋」と表現している

なぜ「橋」か?

それは「空」のイメージをよくよく考えるそういう風になるからだ

空とは空っぽの意味、空っぽということは、空っぽにさせる何か外的要素が必要になる

それは何か、「容器」だ

容器がないと「空っぽ」にならないのだ

僕はよく思うことがある、タンスとタンスの間に空間があったとする

この空間には空気が充たされているとはいっても、他に何もない、空っぽである

しかし、この空間はタンスが2つ並んでないと生じないものだ

果たしてこの「空間」は「存在している」と言えるのだろうか?

確かにタンスは存在している

しかし、空間が存在していると聞いても、実際見てみると違和感を感じる

有るわけでも無いわけでもないのだ


そこで思った


人間も同じではないのか?

人間には意識がある

でも主観的に見て、この意識の存在を他者に証明することは実は不可能な話である

脳を解剖してもそんなものどこにも出てきやしない

でも現に僕は意識があることを知っている

これはタンスの間の話と同じじゃないか

自分から見れば「有る」けど、他人から見たら「無い」

つまり有るわけでもないし、無いわけでもないものなんだ

これは先ほどの「空」の話に繋がらないか?

「有」と「無」の抽象化した概念が「空」であるならば

まさに、人間の意識は「空」そのものではないか!

かといって、自分は仏様のように悟っているわけではない...

うーん...

そういえば、「空」を定義した龍樹は「中論」でこのようなことを言っている

「煩悩と涅槃とは同じのもである」と

???

と思われたかもしれない

そう、実は「煩悩と涅槃とは同じなのだ」

人ぞれぞれ、異なる時代、場所に生まれ、全く同じ育ち方をしている人間などいない

人類全体として、多様性は常に拡大され、人間一人一人がその一翼を担っている

もし人類規模で考えて、それをひとりの人間と見なすならば、その存在は世界中のあらゆる人間よりも遥かに涅槃の境地に近い存在だと言えるだろう

しかし、実際は人間は一人一人分かれているのであり、それぞれ異なる経験をして、周囲と異ならしめるように自己のアイデンティティを獲得している

その過程で、みんな迷うこと悩むことがたくさん発生しているが、これは煩悩とも呼べるし、エントロピー増大中としての涅槃状態であるとも言える

このことから、涅槃には程度があることを知るのである

みんなひとりひとりが、「空」なる存在であり、「煩悩」を足がかりに、「涅槃」へ向かっているし、それぞれの「涅槃」があるということ


そしてそれを「橋」と訳したのは、みんながみんな自分の経験を言葉にして、お互いに伝え合っているし、それを後世の人々に伝えている姿が、川に溺れないように橋を架けている作業員に見えたということと、「空」が筒状の何かあらゆる情報を通過させる「橋」のように感じたからだ



このブログはここまでにしようと思う

ここまで読んでくれた方、長くお付き合い頂きありがとうございました

別にここで書いたことは、みなさんが日頃行っていることを、抽象的な表現を用いて述べたに過ぎません

「何のために生きているのか」と大げさなタイトルを書きましたが

その結果は、日頃の衣食住だったり、人との触れ合いだったりするんですね




それでは、またアイディアが浮かんだらペンを取ります