毎日原稿を書くので、頭の中は過去にいる。
過去の出来事をなぞっていたら、昔と見え方が違うことにも出くわす。
たらればワールドだ。
義父がもし、感謝を知っていたら。
息子の施しに心から感謝し、孫の存在に喜び、笑顔を知っていたら。
私を罵倒せず、穏やかに過ごせていたら。
元夫に、感謝とは何かを人生を持って体現していたら、感謝はパフォーマンスではないことを知っていたのかなって。
いや、こんなこと考えたって仕方ないことはわかっている。
でもこうして、たらればを考えられる能力を人は持っているから、まるで編み物をするように考えることもまたいい。
そして、たらればはやればやるほどに起点を探す。
そうなると、義父の父のその前のその前の、となるだけなので、また気を取り直して原稿を書く。
ひとつ言えるのは、私も含めて
幸せになろうとすることと、幸せを感じることは別ということだ。
それはモラハラ家庭において最大の不具合を起こすってことだ。
モラハラ被害者は、モラハラ被害から幸せを感じようとする。
爪楊枝でほじくるように、被害の中において幸せを感じようとして被害から目を逸らす。
幸せな環境に身を置いた今だからこそわかることだ。
かといって幸せと定義した世界に身を置いていても、足りないと思考することは常に可能で。
だからこそ人間やってるんだろうなとも思う。
私は逃げて良かった。
幸せとは何なのかと考えられる余暇のある世界にこれて良かった。
上を見ても下を見てもキリがない、と
それでも今日も屋根のある家でご飯を食べて眠れるんだ、それは幸せなことなんだと自分に言い聞かせて被害を長期化させてきた。
幸せって、「ある」って定義づけたり感じるものだけどさ、「ない」って見極めることも必要だなぁって。
モラハラ被害者は特にね。
そんなことを思うんだよ。
