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ウルグアイ人FWダリオ・シルバが自動車事故により右足を切断したという。
これによりサッカー選手としてのキャリアは幕を下ろしたと言えよう。

サッカーの歴史において、不慮の事故等により、選手生命を絶たれた人々が多数存在する。
才能があるにも関わらず。。



トスタン


「白いペレ」と呼ばれたブラジル代表の幻のエース。
試合中のアクシデントにより網膜剥離を起こし、弱冠26歳で現役引退。
トスタンがいればブラジル代表は1970年以降も世界王者であり続けただろうといわれている。



ゴードン・バンクス


「イングランド銀行」と呼ばれたイングランドの守護神。
W杯には幾多の伝説になっているゴールが存在するが、GKのセーブが伝説になることはない。
1970年メキシコW杯1次リーグ対ブラジル戦。
ペレの完璧なヘディングシュートを弾き出した見事なセーブ。
今でもペレを悔しがらせる、後世に語り継がれるスーパープレー。
1972年10月22日、自動車事故により右目を失明し引退を余儀無くされた。
後に米国で短期間現役復帰し、40歳で現役引退。



ヨゼフ・ディーター・マイヤー


「ゼップ・マイヤー」の名前で有名な西ドイツの守護神。
バイエルン・ミュンヘン一筋で442試合連続出場記録を持つ。
欧州チャンピオンズカップ3連覇にも貢献。
W杯には西ドイツ代表として4回出場、地元開催の74年大会では見事優勝。
1979年7月14日、大きな自動車事故により選手生命を絶たれる。
1年半後に体調が戻ると機会があればアマチュアとしてでも試合に出る、とトレーニングを続けていたという。
引退後はバイエルン・ミュンヘンのGKコーチとしてオリバー・カーンを育て上げ、コーチとしての能力も証明。
GKとして超一流なのは間違いないが、「人を笑わせること」にかけても超一流であり、ムードメーカーとして必要不可欠であったという。



ヨルン・ブーレ


Jリーグ大宮アルディージャに所属したオランダ人FW。
1999年5月21日未明、六本木で中東系の2人組の外国人に襲撃されて、瞼裂傷、眼球破裂、皮膚裂傷の重傷を負った。
当時J2得点王レース首位にいたものの退団、オランダに帰国。
その後の行方は不明。



羽中田昌(はちゅうだ まさし)1964年生まれ


サッカーの名門・韮崎高校を2度全国準優勝に導いた天才FW。
日本サッカー史を間違い無く変える逸材と言われ続けてた選手。
高校卒業後、交通事故に遭い、脊髄を損傷、下半身不随の生活を余儀なくされる。
現在はテレビ解説等、多方面で活躍している。
S級ライセンスを取得し、サッカー史上初の車椅子監督を目指す。



京谷和幸(きょうや かずゆき)1971年生まれ


室蘭大谷高校からJSL古河電工、ジェフユナイテッド市原でプレー。
Jリーグ開幕前までMFとしてプレーしたが、自動車事故で下半身の自由を失い、車椅子の生活となる。
その後障害者バスケットの日本代表に選出され、シドニーパラリンピック出場を果たす。
自らの体験を伝えようと全国各地で講演活動も行っている。
著書に『車椅子のJリーガー』。



木之本興三(きのもと こうぞう)1949年生まれ


元古河電工サッカーでプレー。
1975年にグッドパスチャー症候群と診断され、腎臓の摘出手術を受ける。
以降、週3回の人工透析が欠かせない体となり、若くして現役を引退せざるを得なくなった。
その後は「JSL活性化委員会」の創設、Jリーグ発足に向けて設立された「プロサッカーリーグ開設準備委員会」の創設と多方面で活躍。
この人物こそがJリーグを作り上げたのである。
そして氏が蒔いた種が実を結び、日本はW杯を開催、ベスト16に進出出来たのである。
病魔と闘いながらもJリーグ発足に尽力した人生はプロジェクトXの題材にもなった。
~わが友へ 病床からのキックオフ~



ユソフォ・サミウ・イェスフ


世界ユース選手権オランダ2005のアフリカ地区予選である「アフリカユース選手権」。
U-20ベナン代表GKは当時18歳の少年。
開催国ベナンの守護神として大会に臨んだが、1次リーグ初戦のナイジェリア戦に0対3で大敗。
翌日、市内のナイトクラブで複数のサポーターから殴る蹴るの暴行を受けた。
暴行後からこん睡状態となり2005年1月17日に死亡した。
ベナンはアフリカユース選手権で3位になり、ベナンサッカー史上初の国際大会に出場。
本大会では日本と戦い1対1の引き分け、最終結果は2分1敗で1次リーグ敗退であった。



エルマン・ガビリア


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/ce/6d/acmilanchampion/folder/1495334/img_1495334_20755174_1?1176774596

2001年シーズンにJ2湘南ベルマーレに所属した元コロンビア代表MF。
2002年10月24日、どしゃ降りの中行われていたコロンビアのクラブチームでの練習中、雷が直撃。
その場で蘇生術を試みたが、意識は戻らず帰らぬ人に。
1994年アメリカW杯に出場したコロンビア代表選手。
アンドレス・エスコバル射殺事件に続き、再び当時の代表選手が不慮の死に至ってしまった。
南米各紙は「呪われた代表の悲劇」と報じたという。



エジバウド・マルティンス・ダ・フォンセカ


「エジバウド」の名前で1986年メキシコW杯にもエントリーされた元ブラジル代表FW。
1992年にガンバ大阪に移籍。
チームの中心として、翌年のJリーグ開幕に向けて大きな期待が寄せられていた。
エジバウドの存在がガンバのチーム力を飛躍的に上げたことは誰もが認めるところだった。
Jリーグが開幕するまでの短期間、ブラジルのタクアリチンガという小さなクラブに移籍していたエジバウド。
だが、1993年1月13日、ブラジルで交通事故を起こして死亡。
雨の日にスピードの出しすぎでトラックに激突したという。
日本での活躍も約束されていただけに、ガンバだけではなく、日本サッカー界にとっても余りに大きな痛みを感じる訃報であった。



ザンビア代表


1993年4月28日。
1994年アメリカW杯予選のセネガル戦に向かうザンビア代表を乗せた飛行機がガボン沖で墜落。
ザンビア代表は1988年ソウル五輪でベスト8進出。
そのときのメンバーを中心として、W杯初出場の期待が高まっていた。
18人の選手は全員死亡。
だが、欧州でプレーする数人の選手達は、直接セネガル入りしたために無事だった。
多くの選手を失ったザンビア代表は、再び予選を戦ったが、後一歩のところでモロッコに敗れ、予選突破はならなかった。



アリアンサ・リマ


1987年12月にはペルーの名門クラブ、アリアンサ・リマの選手ら乗員乗客38人を乗せた海軍機が、国内リーグを終えリマへの帰途に墜落。
クラブは監督、選手、スタッフ等合計19人を一瞬で失った。
アリアンサ・リマOBでペルー最大のスター選手、テオフィロ・クビジャスはすでに引退していたが、クラブの危機に現役復帰し、チーム再建に尽力した。
アリアンサは事故から10年後の1997年にリーグ優勝を果たした。



その他


2005年4月16日に1998年フランスW杯に出場した元ジャマイカ代表のピーター・カーギルが41歳で交通事故死。
カーギルを含め、3年間で3人の元ジャマイカ代表選手が交通事故死。
元々ジャマイカは交通事故が多い国らしい。
さらに、南アフリカ五輪代表のマシュー・ブースが交通事故死。

スロバキア代表のデュボフスキ(28)がタイでバカンス中に誤って崖から転落死。
事故の起こった場所が森の奥地だったため、救助に時間がかかって手遅れになったという。
もし、手当が早ければ助かったかもしれないといわれている。
なお、デュボフスキは日本代表とキリンカップを戦ったあとにバカンスに出かけたらしい。



これらはほんの一部である。
病気と試合中・練習中に負った負傷は仕方が無いことである。

過去の歴史を調べると、自動車事故により選手生命を絶たれた人が多い。
元イタリア代表のジャンルイジ・レンティーニのように大怪我を負いながらも復帰出来た選手も存在する。
さらに元オランダ代表のパトリック・クライファートのように自分は無傷でありながらも同乗者を死亡させてしまうこともある。
精神的ショックの影響からか、多くの選手は本来の輝きを取り戻せずその後の運命が変わってしまうケースが多い。


サッカー選手としての生命が絶たれてしまったことは悲劇と言えよう。
だが、その後、様々な舞台で活躍している人は多く存在する。
その方々に言わせれば、こんなことは悲劇でも何でもないかもしれない。
健常者が抱いている勝手な偏見かもしれない。


このところ飲酒運転等により痛ましい交通事故が多発している。
サッカー選手に限らず、車を運転するときは常に安全運転を心がけなくてはならない。

信号なんて数分待てば代わる。
スピード出せば余計にガソリン消費する。
いつか必ず右折は出来る。

走行中はいつでも止まれるように。
停車中はいつでも動けるように。


飲酒運転は犯罪である