カウンセラーとして生半可な経験を積んだ頃の話です

30分ほどクライエントの話を聞いて、
以前出会ったのとよく似たケースであると思った。

今後どのような展開になり、
結末もある程度見えた。
何を言えばいいかも分かった。

定石通り。


ぼくには原因と結果が見えたと思えたのだった。


『分かった、分かった、あなたの悩みはこれで解決!』。
そして僕は持論をとうとうと述べた。

10分も語ったときに、クライアントが僕をさえぎった。
「もうお腹いっぱいになりました」。
穏やかな拒否だった。

一瞬僕は当惑した。
まだ、最後まで話していないぞ。


「もう満腹です。結構です。」

 

相手は立ち上がり、
そそくさと部屋を出て行ったしまった。
去り際の一言。
「もっとゆっくり話を聞いてもらえると思った……」

一瞬わけが分かりませんでした。

傾聴したぞ、
共感もたっぷりしたぞ、

『ゆっくり聞いてあげたぞ、30分も話をしたのに。
これから僕が最後のお言葉を言うところだったのに』。
このシナリオのどこがいけないというのでしょうか。

以前のケースと同じなのに。

聴き取りに基づいて客観性も十分、
どこでだれが担当しても普遍性があるだろう。
なぜその説明を受けもしないで、
中途半端な状態で退出してしまったのでしょうか。

 

たぶん今でもろくに分かっていないのですが、
あるとき、
生物学者の本川達夫氏の本を読んでいてふと思いました。
人の感情を生み出すメカニズムは脳の中で起こっている物理的現象です。
また、精神疾患のメカニズムを探ることは科学です。

しかし、
その結果が招く価値の低下や損失の問題は科学で扱えるのでしょうか。

カウンセリングでは、
人間の尊厳など「守るべき」ものがしばしば話題となります。


「守るべき」とは守る価値があると言うこと。
これは価値の問題です。
科学は価値には口をつぐむものなのです。
科学は事実を述べるのみ。

価値は取り扱いません。
価値を扱う学問は倫理学です

ぼくは原因と結果のみをクライエントから聞いて、
演繹的に考えて、
その結論を偉そうに述べていたのです。

クライエントの価値感を全く考慮しないで、
一方的にお説教をしていたことになります

 

慢心すると、思わぬしっぺ返しを食らうこともあります。

多くのカウンセラーが1つの規範とする、
K.ロジャース(Rogers.C.R.)によって提唱された
クライエント中心療法の要は以下の3点です。

1.無条件の肯定的関心(unconditinalpositiveregard):クライエントを評価したり、条件をつけることなく、暖かく受容し、尊重すること。

2.共感的理解(empatheticunderstanding):クライエントが感じている主観的な世界をできる限りそのままの状態で感じ取って理解すること。

3.自己一致、真実性(congruence、genuineness):カウンセラー自身、自己概念と経観が一致していて、ありのままの自分を繕うことなく受け入れていること。

クライエントに対してこの3つの態度をつたえることがカウンセラーのなすべきこととして、理論的立場を超えて、
カウンセリングの基本中の基本として、受け入れられています。

*。クライエントというのは、相談に来る人のことです。
その人の話を聞く人をカウンセラーと言うことにします。


カウンセラーはクライエントの話を傾聴し、
批判することなく受け入れ、
忠告や回答をしないで、
ひたすら時間と空間を共有するわけです。

時として辛い経験です。

「あなたの考え方は間違っている」とか、
「こうこうしたら良いんじゃない」とつい言いたくなることもあります。

 

ぼくは、カウンセラーとして

踏み込んではいけないところまで、

踏み込んでしまったんでしょうね。

 

恥ずかしげも無く、

ぺらぺらと喋りながら。

 


いまなら、
お腹いっぱいですなんて、
言われず済むでしょうか……

 

 

 

 

 

わたしは心理カウンセラーです。

そんな私の思いを綴ります

**********************************************************

常識 : 正しい常識、正しくない常識ってあり?

カウンセリングをしていて、クライアントに言うことがあります。

「あなたはそう思うかもしれないけれども、他人はそうは思わないことって、

いっぱいあると思いますよ。

つまり、あなたの常識はヒトの常識とは限らないということです」。

そして、したり顔でうなずいて、じっと相手を見つめたりしていたのですが……

あるとき母子健康診断の会場で心理相談のお手伝いをしていました。
僕は普段「授乳室」として使われている部屋で心理相談をしていました。


ちょっと席をはずして、部屋へ戻りました。

明かりもついていなかったし、何の疑いもなく部屋へ入りました。

「キャッ」という声。
「ん?だれかいるの」。
僕が不在の間に赤ちゃんに授乳するために入り込んだ人がいたのです。
看板ははずしてあったのですが、

今日は授乳室ではなく、

心理相談室として使われていることに気付かなかったお母さんでした。


「あっ、ごめんなさいね」、僕は軽い気持ちで謝って、部屋を出ました。

 

ちょうど通りかかった保健師さんに、
「真っ暗だったから部屋に入ったら、授乳中のお母さんがいたよ。
間違えて入っちゃったみたい。
弁当おきっぱなしなんで、

誰か取りに行ってくれると助かります」

などと会話をしました。


しばらくして、僕は、
保健センターの所長に呼ばれました。

「授乳中のお母さんが、謝り方が悪いと怒ってます。
ちょっと来てください」、
「はぁ~?」。

何でも闖入した僕がちゃんと謝らず、
おまけにお母さんのことより、

弁当のことを気にかけていたのがお耳に届きご立腹とのこと。


結局、所長とともにお母さんの前に行って、謝罪したのですが、

「名前は?」とか、、
「正規の職員か?」とか、
「そんなデリカシーのない人が心理相談員などやっている資格がない」
と最後は個人攻撃の嵐。

ほとんど言いがかりに近いので、

かなりアタマにきました。

「お母さん、色々あるみたいですね、
僕のカウンセリング、受けたほうが良いんじゃない?」
と喉まで出かかった言葉を飲み込んで、

その場は所長の顔を立て、ひたすら謝罪しました。


しかし、

僕の常識ではなぜご立腹なさったのか、
理解できませんでした。

 

お母さんが、子供に授乳させる姿は美しく崇高ですらあれ、

隠微な秘匿すべきものとは思えません。

まして現場は明かりもついていなかったし、
部屋は鍵の手で僕はお母さんを実際には見ていないのです。

万一見たとして、故意に覗いたわけでもないのに、
ぼろくそに言われるほどのことなのでしょうか?


オッパイあげてる人がいたら、見ちゃいけないのですか。
ほほえましく思っちゃいけないのですか。

最近の人はこうなんですよと所長は言っていましたが、
世間の常識は“そう”なのですか?

だとしたらそんな常識は悪いと僕は思います。
そもそも常識に善悪はないと思います。

 

 

昨日電車の中で、2歳くらいの子が赤ちゃんをあやしていました。

赤ちゃんはゲタゲタと大笑い。

笑いが止まらない様子。
結構うるさいくらい笑い通しでした。


でも車内はなんとなく和んで、

しまいに僕もなぜか笑い出してしまいました。

子どもの笑いはいいよね。


同様にオッパイあげている人がいたら、
みんなで囲んで、
赤ちゃんの様子を見てお母さんと一緒に微笑んで、

お話ができるような常識がいいと思います。
 

勝手なボクの常識ですか?


 

ちょうど読んでいた本に書いてありました。

昔よりアレルギーが増加し、

たちが悪くなっているそうです。

色々なアレルギーの中で、

米、塩とあったのに驚きましたが、
精液(致死的)、とあって絶句!

生物としてありか?
終わってないか? 

 

にんげん! 

大丈夫か?

 

昔別の所に書いた文の再録です。

でも、今呼んでもそう思うし、

くだらない常識は、

ますますくだらなさを増している気がします。

 


 

 

ぼくの前後に過去から未来へとのびるタイムラインがあります。

そのタイムラインにドローンのように浮かんで過去へと遡ります。

 

自分史を探る旅。

中3の冬から春にかけて時のドローンを飛ばします。

*******************************

中学3年の春休み。

僕と彼女は高校進学が決まり、

長い春休みを過ごす日々でした。

 

ある日の午前10時頃。

電話が鳴りました。

「もしもし」

「あ、わたし。今日、時間空いてる?」

「うん、空いてるよ(空いてなくても、空いてるよ(^^ ))」

「映画、見に行かない?」

「映画?」

「うん、近所でやってるの」

「わかった、行くよ」

「待ってるね」

ガチャ。

 

今でこそ、映画は〇〇シネマとか、

何とかチッタとか言うところでまとめて上映されています。

 

昭和の40年代には、

そこらの駅には大なり小なり映画館があり、

都会でのロードショーが終わった作品や、

どうでもいい作品などが2本立て、3本立て入れ替え無しで、

上映されていたものです。

 

彼女の家は最寄り駅から5分くらいの距離でした。

そして、駅のそばに場末の映画館がありました。

 

「映画を観てどうしようかな。夕方になったら、横浜でも行けるといいな」

 

 

僕のデート観と彼女のデート観を比べると、

こう言っては何ですが、

僕の方が大人というか、都会的でした。

 

僕の学校は男子校でしたから、

級友と語るあこがれのデートとか、

理想の男女との関係像がありました。

 

ぼくはなるべくその幻想、妄想、夢想に従おうとしていました。

 

そう、映画の後は、

横浜へ出て、元町でもブラついて、どっかで食事。

(おいおい10年早くないかと今になって思うのですが、当時の幻想ですのでご勘弁)。

 

おしゃれして出かけます。

VANかJUNの紙袋を持って、

中に入れてるのは、ノヴァーリスの詩集 

これも、今考えると反吐が出そうなキザ!!

 

逆にこんな中坊がいたら、ちょっと因縁をつけてやろうと思いますね。

 

ともあれ、

カッコつけて、彼女の家に行ったわけです。

 

僕は、フラノのズボンにカーキ色のコート。

彼女はギンガムチェックのスラックスにベージュのコートでした。

 

まあ、仲良く歩いて数分の映画館に到着。

割り勘で入場。

 

 

「ところで、いったい、何を見るんだ?」

あらためて上映中の映画のポスターを見ると、

”グラン・プリ” と書いてあります。

「?」 何も知らずに見に行ったわけです。

 

参考までにウィキペで見ると

モータースポーツのトップカテゴリであるF1グランプリを舞台に、ドライバーズチャンピオンの栄光をかけて戦う4人のF1ドライバーの運命を追ったフィクションである。サブプロットとして、そのような危険なライフスタイルを持つ男達と共に生きようとする女性達に焦点が当てられる。原作はロバート・デイリー(en:Robert Daley)が1963年に発表したノンフィクション『The Cruel Sport』。

撮影は65mmフィルムで行われ、シネラマの大画面で公開された。タイトルデザインをソール・バスが担当している。

公開当時F1に参戦していたホンダをモデルにした「ヤムラ(矢村)」チームが登場し、本田宗一郎を思わせるチームオーナー役を三船敏郎が演じている。すでに国際的評価を得ていた「世界のミフネ」がハリウッド映画に初めて出演した作品であった。”

と書かれています。

 

なぜ彼女がこんな映画を観たがったのか、

今考えてもさっぱり分かりません。

 

当時F1レースに興味をもつ女子学生が存在したのか?

Hondaが好きだったのか?

三船のファンだったのか?

たまたま近所でやっているのでデートの口実にしたのか?

謎であります。

 

 

やがて、映画が始まります。

F1の疾走シーン、パドック、チームの運営、スポンサーとのやりとり、

さまざまな人間ドラマが繰り広げられ、

なんだか良く分からないうちに(正直面白くなかった)、

スクリーンは暗転し、会場は明るくなりました。

 

「出ようか」

僕らは立ち上がり、外に出ました。

 

「なんか、よく分からないね。あの後、どうなったんだろね」

「あなたが出るから。」

「ん?」

 

補足します。

映画 「グラン・プリ」は1966年のアメリカ映画。

上映時間 180分。

 

「!!!」絶句しました。

 

長い映画です。

親切なローカル館では、途中休憩時間を取っていたのです。

 

それを、ぼくは終わったものだと勘違いしてさっさと出てしまったのです。

 

そもそも、ADHDの僕に3時間もじっと映画を観ていることが無理。

早とちりして出てしまうのもありがちなこと。 

以前、乗り換え改札で切符を渡してしまったのと

同じ類いの過ち、おっちょこちょいね。

 

 

最後の大団円はあったのか、

チームはどうなったのか。

途中で出ちゃったら、面白くないだろうし、消化不良にもなるだろう。

 

「入り直す?」

「もう、いいよ」

責められこそしませんでしたが、なんとなく彼女がよそよそしい。

 

まあ、当たり前ですね。

彼女が誘って、見に行った映画を途中で出てしまったわけですから、

期待は裏切られる、プライドは傷つけられる、結末はわからない。

色々な思惑が渦巻いたことでしょうね。

 

なんだよ、こいつ! 

って思いますよね。

 

さすがに言い出せませんでした。

「横浜でも、いく?」

 

トボトボ歩いて、

彼女の家に戻りました。

 

「あら、早かったのね」とお母さん。

 

合わせる顔がないというのは、

こんな状況の僕を言うのだと思いました。

トホホの極致!

 

 

彼女がテレビをつけました。

サーカスの中継です。

 

ピエロが出てきて、

面白おかしいことをしています。

それを見て彼女はゲラゲラ笑います。

 

僕はといえば、

もともとテレビを見て笑う方じゃないし、

今日の今日ですから、無表情に画面を見ている。

 

「あなたって、あんまり笑わないのね」

 

いやいやいや、そういうわけじゃないんだけど。

 

「お腹すいたでしょ?」

とお母さんが出前を取ってくれました。

 

なぜか冷やし中華が出てきました。

(_) マイッタ!

 

 

僕は冷やし中華が大嫌いで、

これまでの人生で完食出来た経験がありませんでした。

 

食わないわけに、いかないだろう……

トホホの二乗!

 

精一杯気を遣って、

もてなそうとしてくれる彼女にも

申し訳なくて。

自己嫌悪。

 

 

彼女とのデートは数えるほどしかありません。

この日ほど、辛かったデートもありませんでした。

 

ややあって、

ぼくは、すごすごと帰りました。

 

幸い不良に因縁をつけられることもありませんでした。

つけられなくて良かったと思います。

たがいに不幸な結果を招いたと思うから(^^ )

 

明るいうちに帰宅して、

VANだかJUNだかの袋から

詩集を出してつくづく眺めて、

 

「ノヴァーリス、嫌いだ!」

 

 

その後、「グラン・プリ」は見ていません。

結末はどうなるんだろうか?