今回はほぼほぼ全編、海辺の街を舞台に繰り広げられる低予算のワンシチュエーション物の海洋ホラーなんだけど、若干の物足りなさは残ってはいるものの、クトゥルフ神話、宇宙的恐怖(コズミックホラー)の要素がある終末映画としても楽しめられ、なおかつ普遍的なメッセージを明示してくれる"人生"の物語としても楽しめる非常に多面的な2019年製作の怪作映画をご紹介します。

ザ・ビーチ(2019)

主演︰リアナ・リベラト

出演︰ノア・ル・グロー/ジェイク・ウェバー/マリアン・ナゲル



・あらすじ(ネタバレ)
休暇で田舎の美しいビーチを訪れた一組のカップルと夫婦。楽しいひと時を過ごしいていた矢先、あたり一面を霧が包み込む。海岸には打ち上げられたネバネバの生物、次々に正気を失い肉体が変容していく人々、無線から聞こえた謎のメッセージ――。一体このビーチで何が起こっているのか?不可思議な出来事に直面する彼らは、やがて何かに寄生された事に気付く…。果たして、極限状態に追い込まれた彼らの運命は?
(アメイジングD.C. 公式サイトから引用。)
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感想
この映画は『デッド・ドント・ダイ』やNetflixのオリジナルドラマ『マスター・オブ・ゼロ』などでロケーションマネージャーとして映画製作に携わり、2本の短編を発表したのち、本作で初の長編映画監督デビューを飾ったジェフリー・A・ブラウン監督による人里離れた海辺のビーチハウスに滞在した1組の恋人カップルに待ち受ける未曾有の脅威とその恐怖を描いた終末系の海洋ホラー。特集上映『未体験ゾーンの映画たち2022』では1月14日に公開され、ファンゴリア・チェーンソー賞、ストラスブール・ヨーロッパ・ファンタスティック映画祭、シッチェス・カタロニア映画祭など、多数の海外の映画祭で評価を受けていた作品です。

この作品、劇場未公開(DVDスルー)映画の日本版ジャケットの文字で時たま見かけるであろうスペインの映画祭、シッチェス・カタロニア映画祭で出品されていた作品で、『ビバリウム』や『ダニエル』などが出品されていた第52回(2019年)では2019年10月3日にお披露目されていたのですが、2020年5月9日に海外のホラー専門の動画配信サービス『Shudder』のShudderオリジナル作品として配信開始になって以降は日本公開される情報はTwitterでは出回って来ず、ましてや、毎年秋に開催される『シッチェス映画祭 ファンタスティック・セレクション』でも上映されず、この映画の存在を知ってからは劇場未公開でソフト化されてもいいから、日本公開してほしいとダメ元で望んでいました。そして、その年の映画祭で出品されていた他のホラー・スリラー映画が軒並み劇場公開が決まる中、遂に数年の歳月を経て劇場公開作品として日本公開が決まり、上映されて間もなくDVDレンタル・デジタル配信され、他の映画レビュアーの評価を聞いて、いざハーフハーフな期待値で観てみました。まず、先に結論から申し上げると、今では考察・解説を交えての感想を書いてますけど、大多数のライトな映画ファンからしてみれば、どこか物足りないなと思うところとか、説明不足だなと感じるところとか、なんだったら、あまりにも観客を置いてけぼりにしかねない突き放したようなラストは意味不明だと思われてもしょうがない。だからこそ、この作品に否定的な意見が出ているのは分かりますが、個人的にはまたまた絶対的に支持したい作品だなと思いましたね。下手すれば、この間紹介した『TUBE』よりも好ましく観れたんじゃないかなと思いましたね。


物語の大筋となっているのは基本、未曾有の脅威となる未知の生物が凄まじい勢いで短期間で人間が暮らす土地一帯を汚染させ、破滅に導いていく様子を海辺のビーチハウスに訪れた恋人カップル、エミリーとランドルの視点を通して観客に見せていて、その登場人物たちが未曾有の脅威に直面した時にどんなドラマが生まれるのかを地味ながら丁寧に描いた終末映画で、地球上に存在しない別の生命体、地球外生命体によって人々が崩壊していくという意味では、宇宙的恐怖(コズミックホラー)、クトゥルフ神話の要素があり、地球の海底に潜んでいた海洋生物がじわじわと人間の体に寄生させて、肉体を変容させていく海洋ホラー、もしくは、ボディホラーでもあるとも言える。また、それでいて、登場人物4人が本編88分で語り切られている限りでは海辺のビーチハウス(別荘)があるこの土地一帯、その周辺に留まっていることから、限定的な空間から成る舞台設定やワンアイデアで繰り広げられているワンシチュエーション物のスリラーでもあり、主人公であるエミリーとランドル(ランディー)、ランドルの父親、ドクの友人夫婦であるターナー夫妻(ミッチとジェーン)、この2組の男女カップルが終焉に向かって訪れる悲しい別れを描いた淡くて残酷なメロドラマという側面もあるという風に考えられるんですよね。ちなみに、この映画を配給している配給会社の悪い癖と言ってもいいのでしょうか。日本版のジャケットに映っている中央の白い水着の女性も、タコのような海洋生物も一切出てこないので、本編を観る時は必ず原題の『The Beach House』と検索して、海外版のポスタービジュアルと予告編に目を通してから観賞することをオススメします。

で、このお話そのものは非常に歪な物語構成となっていて、物語の前半、本編の88分中40分は登場人物がビーチハウス(別荘)にいる間、外部では何か良からぬことが起きている前兆とその登場人物が話している他愛も無い会話の中で物語における必要最低限の情報、物語を読み解く重要なヒントをあらかた提示していて、全体的には特に大きな異変は何も起こらない4人の会話劇を延々と見せられているわけで、序盤の30分辺り、厳密に言えば、ジェーンが林に行くくだりになってからは海から来た謎の生物の恐ろしさ、不気味さ、気持ち悪さというのがメキメキと表面上に浮き彫りになっていって、次第に露わになっていくんだけど、登場人物4人がビーチハウスに滞在した2日目に当たる後半以降ではその異常事態が小出しで画的に見せられているから一定の興味の持続は維持しているんだけど、あまりにもダラっとした会話シーンが流れているがため、こういう表現はあんまり使いたくはなかったけど、前半は他人によっては退屈に感じられる作りにはなっている。

でも、この物語の前半、特に登場人物4人の食事シーンと本作の主人公であるエミリーとランドルの父親の友人であるミッチ・ターナーのバルコニーでの2人きりでのやり取りで、実は作劇的には非常に重要なことを僅かな台詞で明確に語り切っていると考えられるんですよね。詳しく説明しておくと、まず、食事シーン、その中でエミリーは大学院に行って宇宙生物学を専攻したいということが明かされるんだけど、ここで彼女は「地球上の生物研究が主です。人間が生きられない環境で生命体がどう適応するか。そう、化学が生物学に変わるポイントがどこか海底にあるんです。生命はとてもデリケートで様々な要素が上手く組み合わさってできています。太陽からの距離と温度。発達や変化に費やされる長い時間が必要で何十億年もかかる。何かひとつでも上手くいかなければ、私たちは塵やガスになってた。畏敬の念を感じます。」と語ってるんだけど、この台詞があることから、物語の中では具体的には明かされていないんだけど、海の底にいた地球外の生物が長い歳月を経て、人間たちの生態環境を破壊して新たな種として生存しようとしているということが非常に示唆的に示されているんですよね。しかも、ここでの彼女の説明台詞の中には「何かひとつでも上手くいかなければ、私たちは塵やガスになってた。」という一節があることから、後々の展開でしっかり意味を成してくるようになっている。あと、食事のあと、エミリーが宇宙生物学の解説をミッチの妻、ジェーンに話すシーン、あそこで「もし生命体がそんな過酷な条件で生きていたら、他の惑星の環境は生命には厳しすぎる。地球は例外です。」と語られているんだけど、人間が最適な環境で生きてきた地球がたった1、2日で目紛るしいスピードで崩壊するということを考えると、皮肉のように聞こえてくると思えるんですよね。

或いは、エミリーとミッチのバルコニーでの会話シーン、そこで彼女の目標を知ったミッチが「君たち若者にはこの世界 が違って見えるだろう。あらゆる情報に溢れてて、恐ろしいよ。」と言っているのに対して、エミリーは「恐れることはありません。情報がたくさんあるおかげで色んなドアが開くんです。人生をもっと豊かにしてくれる。ただスピードが速いだけです。」と応えるわけなんだけど、ここでの台詞から推察するにあたって、一見すると、ストレートに低予算のB級ホラーだとあながち思われてもおかしくない内容ではあるんだけど、実はこのお話そのものは終末映画の側面を前に出して、表面上は皮を被せておいて、本質的には非常に普遍的なメッセージを観ている人に突きつけてくる"人生"の物語であるということが炙り出されていると言ってもいいんじゃないかなと思われる。どういうことなのかと言うと、エミリーとミッチのやり取りというのは、この話の全体像を象徴的に表している台詞になっていて、自分の具合の悪さを自覚して異様に無表情でいるジェーンとか、この世を終わりを悟って単身海に潜って姿を消したミッチとか、或いは、浜辺にいた餃子のような生物であるとか、エミリーが海から来たとされる謎の生物でじわじわと狂っていく"世界"を受け止め切れず、恐ろしく思えてくるのと微妙にリンクしていると読み取れるし、その生物がたった1、2日で目紛るしいスピードで人間の生態環境を破壊、崩壊させていることと上手く重なるようにしているという風に考えられるんですよ。つまり、要約するとすれば、"この世の中の目紛るしい変化にどう適応して乗り切っていくべきなのか?"、'"この人生の大きな転機をどうやって受け止めるべきなのか?"というのを突きつけていて、人生の大きな転機を迎えることで訪れる不安や恐怖を海から来た謎の生物がもたらした未曾有の脅威に置き換えて語られているわけなんですよね。もっと言えば、主人公であるエミリーが様々な異様な出来事を経験していくうちに人生の大きな転機と向き合って対処しようとする物語でもあると思うんですよね。だからこそ、作品のクオリティはどうであれ、ストーリーが持っているメッセージ性の強み、凄み、深みが伝わってくるだけでも、充分に一定の高い評価は取れると思うわけなんですよ。

で、人生の大きな転機に直面した人物だと、ランドル(ランディー)の父親、ドクの友人であるミッチの視点で見れば、この事態をどうやって対処したか、どのように受け止めたのかを考えると、結構悲しくて切ない気持ちにさせられる。このミッチという人物、前半でエミリーがジェーンに宇宙生物学について詳しく解説するくだりでは食事の後片付けをしていた彼が眉をひそめて水に直接触れて、蛇口の水の異変に気づく描写があるわけなんだけど、あの登場人物4人の中では物語の舞台となる土地一帯を熟知しているのは比較的、ミッチだけだとと思っていて、物語のテーマ的な部分と考えるならば、エミリーとランドルが彼を捜している間、ミッチはジェーンを含めた人間が破滅すると悟っていて、あらゆる対処法をやったうえで残された選択を取った。具体的に言えば、中盤、ミッチは海辺で横になっていたエミリーの前から突然現れて、この土地の話を語っていて、「長くいたことはないが、最後を特別に過ごしたかった。妻とビーチで過ごせたらと…。大切な人が変わってしまう。目の前で…。もう良くならないんだ。元に戻らない。死ぬほど怖いよ。」と言うんだけど、明らかに精気を失ったような顔とやけに落ち着いた台詞の言い回しから察するに、ジェーンがゾンビ化することを予期していたからこそ、ゾンビ化していた妻を見たくない、変わり果てた大切な人の姿をこの目に焼き付けたくないと思っていた。だからこそ、彼はエミリーにはこの世界で起きていた異常事態を知らさないまま、海に入って波間に消えたと考えると、本当に切ない気持ちにさせられる。

あと、前半の40分にある会話劇のパートではミッチが食料品店で買ったその土地の牡蠣であるとか、ランドルが所持していた合法ドラッグのチョコレートであるとか、そういった登場人物4人が身体的に悪影響を及ぼした原因となる物は明確に示されてはいるんだけど、話が進むにつれて、前半の牡蠣や酒、合法ドラッグが原因なのか、後半以降に出てきた綿虫類のような寄生虫や霧に似た大気中の微生物であるとか、ミッチを除く登場人物3人はそれぞれ何の因果で具合を悪くしていったのかははっきりした答えを出してない辺りは観客に向けて考察の余地を広げているので、非常に脚本が巧みだなと思いましたね。前半の夜の食事シーンのくだりでは詳しくは言及されてないけど、ランドルとジェーンが薬を服用していて、ジェーンは迂闊にも林で木にくっ付いていた物質に触れて具合を悪くして、ランドルは食事で出された牡蠣を食べる様子を明確には描写されているのですが、よくよく考えると、そもそもは合法ドラッグがもたらした幻覚作用なのか、海から来た謎の生物による支配なのか、どちらとも読み取れそうな作りにはなってる。個人的にはこれは矛盾点はかなりあるかもしれませんが、物語の主人公であるエミリーは前半の食事シーンで食卓に並べられていた牡蠣を遠慮して食べなかったんだけど、後々、何らかの身体的な影響で意識を失って倒れちゃうけど、あの時、牡蠣を食べなかったことによって、少しだけ症状が重くならないようになっていて、ある意味主人公補正が効いているからこそ、後半では警察車両の無線機で誰かに連絡を取ったり、他人の民家に忍び込んで避難できたんじゃないかなと思いましたね。とはいえ、実質、ミッチを除いた登場人物4人の身体に悪影響を及ぼした原因というのも、この物語の中で人類を滅亡に至らしめようとしている生物の正体は明白ではなくて、説明不足だと感じられる人がいてもおかしくないんだけど、逆に言えば、観客の読解力が試される映画でもあるという風に捉えてもいいかなと思うわけなんですよね。

一方で、主人公であるエミリーとその恋人のランドル(ランディー)、彼らの視点を通してこの物語を追ってみても、ミッチが自ら波間に消えてゾンビ化したジェーンや滅びゆくこの世界からおさらばするのと同じぐらい悲しくて切なくて、ターナー夫妻(ミッチとジェーン)に訪れる大切な人との別れとは対照的に、エミリーとランドルのカップルは変わり果てた大切な人と直接対面して別れなきゃいけなくなることで発生する深い悲しみを非常に淡いテイストで描かれているわけなんですよね。さっき、書いたように、前半に当たる会話劇のようなパートでエミリーがこの作品におけるテーマを言わせている役割を担わせているに加え、エミリーとランドルが今後のお互いの進路を巡ってすれ違いが起きている様を丁寧に見せているんだけど、エミリーの立場からすれば、物語的には人生における大きな転機、或いは、越えられない障害に直面させられるという意味では、まだ希望があるように感じられるんだけど、特にエミリーの恋人であるランドル(ランディー)は大学院に進学したい彼女とは違って、在学していた大学を辞めちゃってて、前半の食事シーンでは「学生を飼育してるだけ。僕は飼いならされたくなかった。「一体何を学んでるんだろう。」「教育は仕事を得るためだけにあるんだろうか?」「学校を出てどうなる?」「結婚して、子供ができて、日曜日は一緒にスポーツか?」って…」「悪く思わないで。僕にはまだ分からないんです。」と大学を辞めた根本的な理由として今後の人生において悩んでいたことが語られているわけなんだけど、ランドルが語られている10代後半〜20代前半が持つ教育機関で学ぶことへの意味、普通の人生を歩み続けることへのつまらなさ、ままならなさというのは非常に普遍的で若者には誰にも当てはまりそうな悩み事だと共感しやすい分、物語の後半では教育機関に飼いならされたくなかった彼が線虫類のような寄生虫によってレウコクロリディウムのように宿主にされてしまい、最終的には意識を奪われてゾンビ化されてしまうのは非常に皮肉なんだけど、同時にゾンビ化された彼の変わり果てた姿は本当に観てて可哀想に感じずにはいられないようになってるんですよね。だから、クライマックス、ランドルがゾンビ化する手前、エミリーと交わした最期のやり取りで「くだらないことで時間を無駄にしてきた。怖いよ。すごく怖い。」というのは危機的な状況からして、海辺のビーチハウスに行って恋人とのすれ違いを治すことが誤った選択で、2人で父親の友人夫婦と一緒に過ごしたのが"くだらないこと"だと捉えられそうだし、それとは別に彼がこれまで歩んできた人生を考えると、もっと有効的に限られた時間を過ごすべきだった、もっとエミリーと向き合うべきだった、といった人生の取り返しのつかなさに直面して後悔しているように感じられるわけなんですよね。おまけに、同じクライマックスでエミリーが地下室にあった酸素ボンベでかけがえのない恋人であるランドルを撲殺して悲しい別れを決断することになるんだけど、その酸素ボンベの音が事の悲惨さを物語っていて、作劇的にカタルシスが効いていて非常に見事だと思いました。

そして、もちろん、これはホラー映画として満足できた人でも、そうでなかった人でも、少なくとも楽しめる本作の最大の見所だとは思うんだけど、ジャンル映画的には物語の中に登場してくる謎の生物、正確に言えば、海から来た地球外の生物(餃子のような生き物や線虫類のような寄生虫)全般から成るクリーチャー表現はとにかく観てて、素晴らしいなと思いましたね。例えば、序盤、物語の中では重要なエミリーとミッチの会話シーンの直後に用意されているジェーンがひとりで勝手に林に行って木の枝に付着していた発光体のせいで具合を悪くするシーン、この画づらそのものはちょっと地味でインパクトには欠けているんだけど、木の枝に付いている物質からして、ホタルのような美しさ、眩さを帯びてはいるんだけど、透き通った水色がどこか妙な妖しい雰囲気を醸し出していて、滅茶苦茶映像に惹き込まれますし、或いは、本作の肝にあたる後半以降の展開、ミッチが波間に消えた直後のシーン、エミリーが浜辺のほうまで行って彼を呼ぼうとした瞬間、右足で何かを踏んでしまって、怖くなって転倒しちゃって、右足をよく確認すると、そこにはクラゲの和え物みたいな色をしたヌメッとしたゼリー状のような物体があって、しかも、うっかりそれを踏んだせいで、足裏にタコの吸盤のような穴が開いているどころか、綿虫類のような寄生虫が潜り込んじゃう辺りは生き物特有の得体の知れない気持ち悪さが思う存分に表現されていて、滅茶苦茶良いんですよね。更に言えば、あのあと、エミリーがビーチハウスの1階のキッチンで痛みに耐えながら足裏に潜り込んだ寄生虫を摘出するくだりが用意されているんだけど、特殊造形、視覚効果技術の作り込みが精巧に良く出来てるとみられるんだけど、あの寄生虫を引っこ抜く直接的な描写は地味ながら本当に痛々しい描写に仕上がっていて見事でした。個人的にはエミリーが踏んだ餃子のような謎の生物、あれが彼女の足裏に潜り込んだ寄生虫の母体のような何かだと思われるんだけど、オムニバス形式のホラー映画『裏ホラー』の中にある短編『謎の肉玉』で出てくるピンク色の謎の生物に非常によく似ていて、あの餃子のような謎の生物は爆発こそ起こさないんだけど、この生物の造形はあれが浜辺に並べられているだけでも気持ち悪さや気味悪さというのが遺憾無く表現されていて最高だと思いましたね。

あとは、これは是非ともご自身の目で確かめるべき名シーンなんだけど、クライマックス、エミリーは瀕死状態のランドルから一旦離れたうえ、避難してきた一軒家の地下室に行って、酸素ボンベに保管されていた酸素で回復するシーンがあるんだけど、その酸素ボンベを持って戻ろうとした手前でどういうわけか、トロトロした液状の物質に包まれている人の形をした何かが現場に駆けつけたとみられる警察官に馬乗りしている光景を目撃するんですよね。恐らく、推察するにあたって、作中で描かれているゾンビ化された人間というのは最初こそは白目を剥いた状態で這って歩いて襲いかかるのがやっとなんだけど、時間が経つにつれて、人間の皮膚や筋肉、ヒトを形成させている物質を分解させて、肉体が変容した成れの果てというのがこの完全体と思われるんだけど、あのトロトロした物質が全身に包まれているのも相まって、生命の得体の知れなさが持たせていて、物凄く不快極まりなくて嫌な気持ちに捺せられましたし、逆に言えば、あれがかつて家に住んでいた家主だったとすれば、もうこれは取り返しがつかない、もう手に負えようがないんだということを観客に鋭いメスのように突きつけているように感じました。この一連のクリーチャー表現は『KUSO』に携わっている美術監督のデヴィッド・オフナーさんとプロダクション・デザイナーのポール・ライスさんが非常にいい仕事を果たしているかなという風に思われます。

ただ、敢えて欲を言えば、物語の中盤、エミリーが地面にいた餃子みたいな謎の生物の一部を踏んだ挙げ句、線虫類のような寄生虫が右足の裏を破って入り込んじゃうくだりで浜辺にその生き物が並列に並べられている引きのショットが見せられているんだけど、これはこれで、せっかくわざわざ特殊造形でその生き物を精巧に作り上げてるんだから、その後、ビーチハウスに続く階段にその生物がウジャウジャ蠢いている描写を気持ち悪く見せ切ったほうがもっとクリーチャー表現が洗練されていて、もっと観客に気持ち悪さを提供出来たんじゃないかなと思いましたね。或いは、彼女がビーチハウスに戻ろうと負傷した右足を引きづりながら階段を上るシーン、後の展開ではランドルもジェーンも最終的には寄生されてゾンビ状態となって再起不能になるんだから、彼女があの階段に上ってからキッチンで自力で寄生虫を摘出するまでの一連のシーンはランドルがゾンビ化したジェーンに動揺して手に負えなくなっている状況説明の描写と「クロスカッティング」で同時進行で展開させていったほうがより一層危機的な状況から来るスリリングさが際立っていたんじゃないと思いました。端的に言えば、エミリーが階段を上るシーンはいくらなんでも、編集でバッサリカットしてあっさりし過ぎているとは言えます。

あと、クライマックス、明らかに微生物と思われる霧や海辺にいた寄生虫の影響で身体を悪くしているエミリーが避難してきた一軒家の地下室にある酸素ボンベで回復するわけなんだけど、その時に出会った人の形をした何かがいるんだけど、あれが仮にでもあの家の家主を襲っている最中だったとすれば、気が変わって彼女を襲撃することはないんだろうけど、これも餃子みたいな謎の生き物同様、せっかく特殊造形でちゃんと観客を驚かせているんだから、エミリーがゾンビ化したランドルを殺す手前で大乱闘する大見せ場があったほうがもう少し物語が更に盛り上がったんじゃないかと思えてならなかったですね。エミリーがかけがえのない恋人であるランドルの悲しい別れをはっきり示すとしても、人の形をしたあの生き物がゾンビ化したジェーンのようにドアを突破してエミリーを追い詰めてくれないというのはジャンル映画的にはこれもあっさり感が否めないんじゃないかなと思いましたね。

あと、これは観客の受け取り方次第であって、完全に好みの問題になってくることだとは思うんだけど、ラストシーン、エミリーが酸素ボンベで延命措置を取りつつ、頑張ってこの土地から出ようとしたものの、結果的に謎の地球外生物に命を奪われるわけなんだけど、あそこで彼女が息絶えようとするのを突き放したような感じで描き込まれてはいたんだけど、内省的、寓話的な側面が非常に濃く浮き出ている分、現実と虚実が混ざり込んだ海辺のシーンは観客を置いてけぼりにさせている結果を招いているように感じてならないなと思いましたね。

ただ、このラストシーン、翌朝の海辺でエミリーが仰向けに横たわっているシーンは話の流れからして、解釈の余地が必要だから、これははっきり言って、否定的な意見を持つ人があのラストがよく分からなかったと思う気持ちは非常によく分かるのですが、これは個人の解釈に過ぎないのですが、エミリーはあの夜に汚染されているこの土地から脱出しようと失敗して、地面に倒れているんだけど、あの描写を観る限りではエミリーは寄生していた大気中の微生物によって1度は意識を奪われていたにも関わらず、奇跡的にミッチのようにあの海辺まで歩いて、最終的に寄生した状態で仰向けに倒れていたという解釈が取れるんだけど、物語の合理的な理由、理屈は置いといても、ここで重要となるのは死に際に放つエミリーの最後の台詞で、「怖がらないで。」と何度も小さい声で呟くんだけど、彼女の人物設定上、この地球にいる人類の大多数が地球外生命体に支配されて、塵やガスになって破滅する。この世界では適応できないということを悟ったと言えるし、もっと言えば、これを多面的にかつ寓話的な観点から紐解くとすれば、エミリーがこの人生の大きな転機から成る不安や恐怖、なんだったら、超えられない現実というのを必死に受け止めようとしているという見方が読み取れるわけなんですよね。要するに、序盤でエミリーが言っていた「恐れることはありません。情報のおかげで色んなドアが開くんです。人生をもっと豊かにしてくれる。ただスピードが速いだけです。」という台詞がこのラストで伏線回収されていて、来たるべき新しい変化に受け入れて一歩前に進むようにと明示されているわけなんですよね。それこそ、この作品のテーマ的な部分とはズレているかもしれないんだけど、芸能人の突然の訃報だとか、いまだに解決されてなかった行方不明事件のその後とか、重要な転換期に置いて、この先どう乗り切るべきなのか、どうやって立ち直るべきなのか…。物語上、救いようのない後味の悪い物語なんだけど、普遍的な"人生の物語"になっているということは断言できると思いました。

ということで、海外の映画批評サイト『Rottentomatoes』では批評家支持率が81%という高評価を獲得しているにも関わらず、観客支持率は29%と低評価で、この低評価を裏付けるように日本では否定的な評価が多くなっているのですが、エンタメ的なホラー映画として観れば、地味ながら若干、物足りなさが残る作りになっちゃってて、物語の作りからして、大変肩透かしを喰らいかねないというのは間違いないと思いますが、否定的な意見が生まれるのは重々承知のうえで、愛すべき怪作だということは間違いないと思いました。とにかく、監督の長編映画第1作目にしては手放しではこれが「最高傑作」と呼べるかは微妙だったりはするんだけど、前半でゆっくりとした話運びであるとか、クリーチャー表現の描き込み不足とか、それを補うかの如く、この世の中の新しい変化にどう適応して乗り切っていくべきなのか、この人生の大きな転機をどうやって受け止めるべきなのか、そして、この現実とどう向き合っていくべきなのか。最小限の説明でありながら非常に普遍的なメッセージを問いかけてくれるこれまた素晴らしい1作ではないのでしょうか。諸手を挙げて万人にオススメしづらいけど、是非是非、色んなかたちで観賞してみてください。