分かって欲しい、変わって欲しいと願うとき
そうではない現実を見て、苦しくなる。
その人が、こちらの思いを分かってくれなくても、変わらなくてもいいと
思いきれれば良いのだけど、未だその境地に達することができない。

思いどおりにならない現実を見て、悔しくて、歯がゆくて、そして
その悔しさを我慢や辛抱してしまうと、自己の思いを抑圧することになる。

さて、ここ最近の自分を振り返ると
①一青窈さんの「ハナミズキ」には
 僕の我慢がいつか実を結び・・・・とあり、自分さえ我慢していればいいと思っていた。
②遠藤周作氏の「深い川」からは
チャームンダーという女神像をみせられた。「彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子どもたちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこには蠍(さそり)が噛み付いているでしょう。彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです」という文章に触れ、神の思いを知った。
③一方、マザーテレサは
 キリストの痛みを感じるまで、人を愛しなさいと説いています。
これに対しては、そんな痛みを感じるまで愛することはできませんと抵抗している。
④映画「青春の門、自立編」からは
 「俺とお前は水車、お前を浮かべるために、俺は沈む」と語られるシーンがあるが、今時、義理と人情は通用しないと思う。

上記の①〜④からかなりの影響を受けている。
しかし、それは、共通して犠牲心でしかない。
                              
 話変わって、アディクションからの解放は、依存対象を我慢することや辛抱することではないと強く訴えたい。
自己利益や利他の話はさておき、誰かを救うために自分が犠牲になるのなら、きっといずれは恨みに変わるような気がする。

ならば、自分の幸せを最優先にしてもいいのではないか。しかし、そうしようとする時、自分自身のエゴが激しく抵抗する。また、そうした時、第三者も「そんな生き方ではダメだ」と激しく批判することでしょう。
それでも、今私は、自分の幸せを最優先にしようと思う。
悩みや辛さを一時的に麻痺させるためにアディクションには頼らない。

そんな思いを抱え、悩みながらも今を生き続けています。
悩むことは私の趣味ですから!