昨日は色々と思索した一日でした。
この世界は肉体も含めて、もともと良いも悪いもないニュートラルなつまり中立な幻想
しかし
私は、「間違った心」という思考のギアをはたらかせているのだが
その「間違った心」というギアから離れて、ニュートラルなポジションに退く
そのニュートラルなポジションにて聖霊に世界の審判をゆだねる
世界は幻想だとし無罪との審判で心がやすらぐ
聖霊と共に「正しい心」という思考のギアをはたらかせる
聖霊は私が「間違った心」から離れてその「間違った心を」を観つつ
その「間違った心」の審判をゆだねると
「間違った心」が信じていた罪悪感を私たちから取り去ってくれる
そして
この裁くことなくやさしい笑い声の中で観る体験を贈るのだ
この体験を通じて、赦しの意味を教えてくれるのかも?
本日のテーマは「投影が知覚を作り出す。」について
JACIMさんのケネス・ワプニク博士の註解によれば
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私たちは最初に自分の内を見て、どのような世界を見たいかを決め、それからその世界を外に投影し、自分が見ているままにそれを真理とする。私たちは自分に見えているものが何であるかという自分の解釈によって、それを真実にする。もしも、怒り、攻撃衝動、何らかの形で表われる愛の欠如といった自分の間違いを正当化するために知覚を用いているなら、私たちは邪悪さ、破壊、悪意、羨望、絶望の世界を見ることだろう。こうしたすべてを赦すことを、私たちは学ばなければならない。それは、私たちが「善良」で「情け深い」からではなく、私たちに見えているものが真実ではないからである。私たちは歪んだ防衛により世界を歪曲してしまったので、本来はそこに存在しないものを見ている。知覚上の誤りを認識することを学ぶとき、私たちはまた、そうした誤りを超えたところを見ること、すなわち、「赦すこと」を学ぶ。同時に私たちは自分自身をも赦し、歪曲された自己概念を超えて、神が私たちの内に、私たちとして創造した自己を見る。
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投影は神と分離したとする想念が作り出す
それは、神と一体となっている智識の代用品として
知覚を生じさせる想念システム?のようなものだ
知覚した感覚を判断して作り出したものが感情ならば
感情=知覚×思考
となるのかもしれません
どのような世界を知覚したいのかを自分の内を見て決めその世界を外に解釈し真実とする
この二重の間違いは以下の図解が示してくれる
▼『奇跡講座』の理論の図解
http://www.jacim.com/acim/?page_id=147
ケネス・ワプニク博士は、「レベル1」と「レベル2」とに分けているが
私たちは二重の間違いを示していて
「レベル1」では、神の御心と分離した心が存在するという間違い
そして
「レベル2」では、その分離した心が「正しい心」と「間違った心」に分裂しているという間違い
私たちが世界に直面しているのは「レベル2」で主に「間違った心」をはたらかせているのだが
投影した世界に対して、真実だとする「間違った心」をはたらかせる代わりに
投影した世界に対して、幻想だとする「正しい心」をはたらかせる
「正しい心」とは聖霊の住むところでもあるので
「レベル1」での神の御心と分離した痛みの癒しを垣間見させてくれる
以上は、私の現時点での経験的見解だが、ワプニク博士が示すレベルはなかなかに手強いなぁ~
大いなる神様
この幻想世界を投影により知覚し「間違った心」をはたらかせるとき
その「間違った心」から離れて観て
「間違った心」の審判を聖霊にゆだねられますように
赦しを通じて
聖霊が導く「正しい心」をはたらかせられますように
歪曲された自己概念を超えて、あなたが私たちの内に、私たちとして創造した自己を観させてください
アーメン
この日記を読む方々に、誰もが「無垢」で、神のひとり子キリストであるという真実がもたらす「永遠のやすらぎ」が訪れますように。