昨日は、サラッと
最近、「決められている」とするものが好まれているようだが
「決められている」とは、求めた「愛」をそのままに「愛」という「内容」に受け取るということなのではないだろうか?
修辞的疑問文で書きましたけれど
どのような「形態」でも「愛」という「内容」を知覚する
ここで以下のケネス・ワプニック博士の解説を復習しよう!
▼JACIMさん提供の「奇跡講座の理論」
http://www.jacim.com/acim/?page_id=140
「形態」をコントロールすることで「内容」を獲得しようとするのは「間違った心」にて知覚しているのがわかる
ならば
「正しい心」にて知覚できるように訓練するということなのか?
本日のテーマは「これは原因についてのコース(学習講座)であり、結果についてのコースではない。」について
原点に戻るということで本日のテーマとしました。
『奇跡講座』が焦点としているのは私たちの思考・想念であり、真実には私たちの思考・想念の投影に過ぎない外的な事物事象はその焦点から外れているので
幸せを妨げる原因をほったらかして、幸せの「形態」という結果を追求することではない!
世界や肉体をニュートラルなものとし、「正しい心」にとってそれらを聖霊の教育手段として、私たちはそれらを通して聖霊が教える赦しのレッスンを学んでいく
というのが『奇跡講座』だと記載してある。
「間違った心」が象徴する自我が知覚させようとする幻想/幻影を罪と受け取って攻撃する
代わりに
「愛を求める声」として受け取って赦し、「正しい心」にて知覚できるように聖霊に過ちを訂正してもらう
これを毎瞬毎瞬積み重ねてゆくのが私の仕事なのだ!
大いなる神様
あなたという原因をすべての形態から観ることができますように
そのために、間違った心が世界へと映し出す過ちを赦す選択を思い出せますように
何度も何度もそれを繰り返す意志の力をあなたから受け取れますように
あなたが原因ならばその結果に苦痛は生じないことを実感できますように
アーメン
この日記を読む方々に、誰もが「無垢」で、神のひとり子キリストであるという真実がもたらす「永遠のやすらぎ」が訪れますように。