臨床における評価についての個人的な見解 | 堀江直樹の無限上達への道のり

今日の雑感。。



さて、




僕も開業してそろそろ1年です。



開業しての1年の総括としては、



特に赤字になってないからまぁとりあえずOKだけど、



気付いたら講師の依頼ばかり頂くようになって、



なんだか整体院を広げることに終始仕切れない自分がいることに気づきました(*^^*)


昨日もご新規さんから電話がありましたが、








予約やらセミナーの仕事やらの関係で受付られず保留に(^_^;)





まぁーこの辺はまた赤裸々に書きますよー。



開業して成功したい皆さん。



多分、手掛ける仕事は多角的にいくのもいいと思いますが、



ある程度エネルギーをかけないと突破できないことと、



なりふり構わない感じは絶対出てこないんじゃないかって感じています。



甘えてしまうんですよね。




これは自分に言ってるんです(*^^*)



でも、それをこつこつ丁寧に続けるというのも大事なのかも知れませんが(((^_^;)



ま、今年度は僕なりにどうしていくか考えながらやっていきます。。




って、



無駄話からスタートしましたが、



じゃぁそんな中でタイトルの内容なんですが、



たまたま昨日の飲み会で話が出たのですが、




PTの方は評価の無い、とか個別性のない治療について嫌う人が多いと思うのですが、



いろいろな治療法がある中で、だいたいすごい治療家というのは迷いがないという風に感じています。。





「評価ができれば治療ができる」




という視点もありますが、評価を検証するためには治療ができないと評価が意味を成しません。




んで、一般的にありがちなのは評価という現象が、




できないことを探したり、治らない理由を探すために行うものが多くて仕方がないような感じがします。。




すごい先生の治療って、だいたい治療即評価になっているというか、






評価のための評価になっていないことがポイントに挙げられます。




これは、「評価」というか「検査」に近いニュアンスなんですが、その行為自体が悪いというわけではなくて、




これも結局、いいとか悪いもなくただの道具なので、




使う側の人間に問題があるわけです。。




つまり、評価をしなくちゃいけないと声高に叫ぶのは、




僕の勝手な思考ですが、その常識のルーツをたどっていくと、




「セラピスト」という人種自体が抱えている




自己肯定感(自分に対する いいね!を押せる能力)の低さにも由来しているのかなと。。




どちらかというと、評価という手順よりも、(今回のお話では治療を行う前に行う、検査的に近い行為のものを評価と定義してお話しています。)




「検証」作業のほうが重要です。。(こちらは後に実施するもの)




なぜならば、自分の弱い部分と向き合わないといけないので勇気がいりますので。。




なので、そういった理学療法士なりセラピストの人たちが抱える、




より人間的なというか文化的なものが払しょくされていくことのほうが、




より大きな治療効果、はたまた評価という作業を重視する職業としての優位性を発揮することにつながるんじゃないかなと思います。




ただし、これは勘違いすると我の強さや思い込みに近い部分もあるので、病院なりチームの中でこういった能力を発揮しすぎると、




いろいろとけむたがれたり、疎まれたりもします。。




実はこれも本人自身の問題で、相手から指摘を受けたりすると、それに対して過剰に防衛してしまうというのは、




自身の不安を表出しているわけです。。




僕の尊敬する治療家たちは得てして、




「白を黒と言える雰囲気」を問答無用で押しつける、(というタイプもすごいけどちょっと好きじゃないかな)





のではなく、自然と周りから納得されるような魅力のあふれている人が多いです。。




またこの辺のお話はいろいろと書いていきます。。




堀江塾のコースなんかではこういった哲学の部分を大事にしています。



関西、愛知でのコースの募集も開始しましたので興味のある方は昨日の記事をご覧ください。



今日も長文をお読みいただきありがとうございました(*^_^*)





さて、今日はこれから板橋に行きましてセミナーの講師をしてきます。。







それでは!




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