先日ゴーギャン展に行ってきました。
http://gauguin2009.jp/items4.php
ゴーギャンを元に書かれた小説として
こちらは有名です。
- 月と六ペンス (岩波文庫)/モーム
- ¥798
- Amazon.co.jp
1Q84を読んでから、
印象的に出てくる月の存在が
気になっていました。
VOGUE NIPPON (ヴォーグ ニッポン) 2009年 09月号 [雑誌]
¥680 Amazon.co.jp
こちらは世界中の国でそれぞれ発行されている
ファッション誌ですので、1Q84の書評が出ていたのですが、
音楽や小説の教養はつくが、この通俗性が人気なのだろうと
書かれていました。
果たしてそうなのかな?と思いながら
「月と六ペンス」を読みました。
どうも1Q84のテーマと似ている部分があるからです。
画家になるストリックランド氏は
証券業者だったのですが、
画家を希望し、しかしながら全く評価されず、
妻子を捨てて、南国へと旅立つのですが、
そこで出会う原住民の暮らし方に
人の野生を見て、文明社会に対して
疑問を持つ。
そこで最愛の娘が死んだ知らせを受けた後
描いた一番の大作が今日本に初上陸している
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
なのです。
「月と六ペンス」という題は、
「人間の絆」というこれまた名作の
「TIMES」の書評で
「多くの若者と同じく、主人公のフィリップは
『月』に憧れるのに夢中であったので、
足元にある『六ペンス』を見なかった」と
いうのがあってそれからついたそうです。
展示の説明としては、文明社会に対して
疑問を持つ、ということまでの内容なのでした。
けれども、恩恵を被らなくては
生きていけない現代において
全面的な否定は文明社会の後退につながります。
どうしたらいいのかな?
こちらを読むと、さらに理解が深まるのではないかな
と思いました。
文明社会の否定であっても、
ゴーギャンの絵は、あくまでも遠い異国のタヒチにおいてでも
キリスト教的な世界解釈であったのです。
それが批判としてなのか、
実際彼(ゴーギャン)も、そういう風にしか見られなかったのか?
モームは、ストリックランド一家について、
こんなことを書いているのです。
「ストリックランド一家について、以上自分が書いたことを
読み返してみて、我ながら四人ともあまり生き生きとは
描かれていないと思わざるを得ない。中略
今のままでは、一家は古めかしいタペストリーに描かれた
人物と同じだ。でも彼らは、僕に対してそれ以外の印象を
何一つ与えなかった、というのが唯一の弁明だ。
社会という集団の一部であり、集団の中でのみ存在し、
集団によってのみ存在している人には、存在感の希薄な
ところが見受けられるが、あの夫婦はまさにそういう人間なのだ。」
村上春樹氏は、登場人物を、
存在の希薄さのようには扱っていません。
かといって、このモームの文を読み違えるとか
最近の風潮であるような自己主張すればいいという
ものとしても考えていると思えません。
不思議な終わり方でしたが
やはり家族に限る?というふうにも書いていません。
一か月、少し考えてみたいと思っています。
ああもちろん、近いうちにまたブログは書きます。
今日も見に来てくださりありがとうございました。

