生きるとは、自分の物語をつくること/小川 洋子
¥1,365
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今回の本はこちらです。


この記事の前の最後に引用しました
http://ameblo.jp/achickcanary/entry-10587221523.html
極東ブログさんの「book3は、予想外の成功をもって一つの完結を迎えた。作者が批評の立場に立ってみせることで、かつての長編のように謎を放置するだけのことはなく、謎の回収を行った。生の強い意志が、作品の文学的な合わせ鏡を許しはしなかった。」

「生への強い意志」ということに関しては阪神大震災や地下鉄サリン事件の影響から

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)/河合 隼雄
¥460
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こちらの本がありまして、この時のことは「考える人」のインタビューの中に出てきています。


作家の小川洋子さんとの対談形式で非常に平易な言葉でわかりやすく語られています。上記の村上春樹との対談の本を読んだ時は、眠くなってしまって、こちらの方が帯にあるようなむずむずがほぐれていく、というか、ああそうか、と心が明るくなるような気がしました。疲れてたのかな?

P70

小川 「人間が困難な現実を、自分の心に合うように組みたてなおして受け入れるというのは、わたしもよくわかるんですけれども、ときどき、例えば地下鉄サリン事件に遭って助かった方だとか、尼崎の脱線事故で助かった方、あるいはアウシュビッツから帰って来たというような人の中に、罪悪感を持つ人がいますよね。」

河合 「います、います。」

先が見えないような状況において、なんとか前に進む力のために物語の組みかえがいるようです。


P86

小川 「あまりにも「個」にばっかり執着していると、何か行き詰ってしまうんですよね。」

河合 「そう。「個」というものは、実は無現な広がりを持っているのに、人間は自分の知っている範囲内で個に執着するからね。私はこういう人間やからこうだとか、あれが欲しいとか。「個」というのは、本当はそんな単純なものでないのに、そんなところを基にして、限定された中で合理的に考えるからろくなことがないのです。前提が間違っているんですから(笑)。」

インターネットでこのように何か読み書きしていますと、ある時には可能性を感じてもっとすごいことができると思ってしまう時もある。逆に、自分自身の規定ということでなくて、自分がどのように感じて、こう思ったか、ということについては、おざなりになってしまう場合がある。

今の自分と、先の可能性の感じ方って大事なんだなあと思いました。今すぐにできることじゃないかもしれない。それでもいつかできるようになるかもしれない。そう思うことって大事なんでしょうね。この間読んだこちらの記事http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/07/post-6b45.html (日本のインターネット創成期から活躍されている方です。辛口で恐い時が多いのですが。)もそういうことだったのかなあと思いました。

そこで組みかえに際してどういった考えが必要なのか。

P103

小川 「新宿の街なんかを歩いていて思うんですが、超高層の近代的な、一流企業が入っているようなビルもあれば、ガード下の一杯飲み屋みたいなのもある。日本は街自体にも境界線がないですよね。

河合 「そうそう、日本は境界線がいろんな点で曖昧な、ものすごく面白い不思議な国ですよ。彼ら(欧米人)から誤解されるのは無理ないと思います。

小川 「でも、科学技術が限界まで発達してしまった現在の段階になると、むしろ厳密さよりもあいまいさの方が人間を楽にしてくれるんじゃないかって思いますね。

P105

河合 「僕の言い方だと、それが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。

小川 「矛盾との折り合いのつけ方にこそ、その人の個性が発揮される。」

河合 「そしてその時には、自然科学じゃなくて、物語だとしか言いようがない。」

小川 「そこで個人を支えているのが物語なんですね。」

ここで、現実的な実践のな考え方をする時に、例えば今ある現状から仮説を誰かがたてた時に、「学問的」に矛盾をひたすらついていっても現実的でなくなるのですが、時としてインターネット上では、平等と自由という名のもとに、それが「個人」や「特定の範囲」の問題でもそのように(視点を変えてみるのではなく)幅を広げて検証しようとする人がいて、物事が進まない場合がある。まして「個人」の問題の場合にそういった現実に現時点で、考えたり、行動しえないような範囲のところまで書かれる場合というのがあるんですよね。それはどこかで双方向性でもなくなる時もあるんですよね。それがわからない人というのがいる。「個人」に関する問題の場合に本人が現時点ではどうしようもない部分にまで及ぶと危険だということがおわかりになりますか?アメブロはニュース以外の部分で余りこういった度を逸したことはありませんがインターネット上ではたまにそういうことがある場合があります。


なんとなく、ですから物語の組みかえが必要なのは、こういった「学問的論述」を場違いに使いたくなるほどのある意味での能力を持てあました方なんじゃないかと・・・。


三年前の記事になりますがほぼ日刊イトイ新聞でこのような対談がありました。

 適切な大きさの問題さえ生まれれば

http://www.1101.com/umeda_iwata/index.html

インターネットの世界では、ある部分で奉仕のような「山がそこにあれば登る」というような方の力というのが大きいのですが、もう一歩利用者に訴える時に、こちらでは問題の解きやすさから、問題の大きさが大きすぎるととっつきにくいのではないかというふうになっていますが、大事なのは問題の大きい小さいではないのではないか、

インターネットというのは未開拓である分、慎重にならなくてならない部分というのもある。それは上記のような「個人」の問題を慎重に取り扱うということでなくて、幅の広げすぎのことであったり、心身に異常をきたすようなことであったりします。発展が早いということは、取り返しのつかないようなことでなければ変化を受け入れると書試行錯誤をしていくということなのになんでできないのかなとたまに思うことがあります。


http://ameblo.jp/achickcanary/entry-10587153578.html


こちらの続きというか少し疑問に思った点について書いてみます。


今年の12月に映画化されたものが上映することが決まっているようで、その流れなのかもしれませんが、この作品について村上春樹は女性のことをまだそんなにわかっていなかったということでインタビュー内ではご自身があまりいいものとして受け取っていないようでした。

(正直に書きますと、見たいけれども見たくないような気がしています)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)/村上 春樹
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ノルウェイの森 下 (講談社文庫)/村上 春樹
¥540 Amazon.co.jp

しかしこの小説が出た当時と比べると社会は変わっており、現在エッセイを連載中のananでは男性のヌードがでているほどだということで、1Q84の時は性描写に関して批判は少なかったということなのですが、そういうふうに悪い注目をされないようにある面ではとりはからわれた部分があるんだと思います。

インターネット上のブロガーの書いたものでまともに書かれた書評をみますと、決してそうではないと思うんです。等価交換的に世間一般ではなっているというのは女性の男性性によるものだとそういうところで男性の性産業と同じようなものも存在します。しかし、そういったものを好む女性であってもそのように扱われていいと思っているのは一時または大多数ではなく、勘のいい女性に様々な齟齬をもたらしている。そうでなければ、村上春樹が書く「失われた女性」というものはいったい何になるのか?都市伝説にでもして片付けるのか?(やめてよ)また、インターネット上には余りにも欲望のままの男性の都合のいい意見というのが当たり前のように居座っており、女性が現実以上に非難され大袈裟に言うと家庭内暴力を受けている人のように委縮している部分がある。その状態というのは、ある面で、去年の9月に毎日新聞のインタビューで答えていたようなことが起こっているのではないかと思うんですよね。

等価交換的であることはどこかで幻想でもある。確かにそこを崩すと社会的にまずいということはあるのでしょうがそうでなければどうして青豆の親友であるあゆみはああいった悲惨な殺害にあうのか(アフターダークでも中国人売春婦が悲惨な殺され方をします)。子供を生むということを決意して覚醒に至るというふうになっているのでしょうか。

「僕が本当に描きたいのは、物語の持つ善き力です。

オウム のように閉じられた狭いサークルの中で

人々を呪縛するのは、物語の悪しき力です。

それは人々を引き込み、間違った方向に導いてしまう。

小説家がやろうとしているのは、もっと広い意味での物語を

人々に提供し、その中で精神的な揺さぶりをかけることです。

何が間違いなのかを示すことです。

僕はそうした物語の善き力を信じているし、

僕が長い小説を書きたいのは物語の環(わ)を大きくし、

少しでも多くの人に働きかけたいからです。」

※引用文がずれてましたすみません 。



http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/04/1q84-book3-e707.html
いつも非常に深い書評を書いていらっしゃいます。

「book3は、予想外の成功をもって一つの完結を迎えた。作者が批評の立場に立ってみせることで、かつての長編のように謎を放置するだけのことはなく、謎の回収を行った。生の強い意志が、作品の文学的な合わせ鏡を許しはしなかった。」

ちょっと具合が悪かったりバタバタしていまして

しばらくこちらのブログは書いていませんでした。

もう一年近く経ったんですね。早いなあ。


1Q84-3の感想はこちらに書いていなかったですね。

シューベルトにはならない ※補足した×2

http://d.hatena.ne.jp/achickcanary/20100419/1271663302

 どちらかというと世の村上春樹ファンがそうであるように

 寝る間を惜しんで一気に読んで書いた感想ですが。

考える人 2010年 08月号 [雑誌]/著者不明
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先日書店でこちらの雑誌も山積みになっていました。

「このインタビューは、『1Q84』のBOOK1、BOOK2、BOOK3のないようについて触れている部分があります。まだ読んでいらっしゃらない方は、まずは小説をお読みになってから、インタビューをお読みになることをおすすめします。」と書いてあります。

しかしインタビュー内容は1Q84に至る村上作品とその作者自身の振り返りによる個々の作品の経緯が非常に率直に、なお且つ詳細に述べられていてその姿勢に少し感動しました。また、村上春樹が影響を受けてきた国内外のさまざまな文学作品の包括も、文学作品の紹介となっている部分もあり、非常に読みごたえのあるものでした。

物語と自己と自我に関する言及は非常にわかりやすく、1Q84というのは村上の初期の作品に対する「批評」になっているんだなあと思いました。村上春樹の初期の小説は倍音が出ていると言われていてそれだけに読んでいる人がゲシュタルト崩壊のような状態になりやすい。それと阪神大震災やオウム事件の取材などを通して村上自身が自己と自我、それと物語の関係性について深い考察をし、その上でなされた作品であるので、村上自身が1Q84は僕にしか作れないものだし僕独自のものだ、と言っているのでしょう。この部分の言葉だけ読むと世間でこういったことというのは個性や独自性から非常によく聞く言葉ですが全く違うものであると思います。円熟期を迎えて自分がまとまっていく(落ち着いて行く、自己完結)というような方向ではないのがすごいと思いました。

ただインタビュアーは続編が読みたいと何回も言っているのですが、村上春樹自身が書ききって疲れているからと言っているのにちょっとかわいそうにも思いました。ただそれも世間の半ば無責任な要求というのでなく文学作品としての重要性で言われていることがわかるにしても。