なにがふたつで充分なのか
(ハリソン・フォードの前に置かれているものは?)
『ブレードランナー』がすきだ。
このたび『~ファイナルカット』とゆうやつを、ひと足お先に観てきた。
今年のカンヌで上映された最新バージョンは、個人的にはこれまで観た中ではいちばんすき。
ひさしぶりにスクリーンに喰らいつくように観て、エンドクレジットが終わってもしばらく立ち上がれなかった。ものすごい。
あの世界観や、それぞれに物語を孕むガジェットの数々にも溜息が出るけれど、なにしろ物語。
人間×化け物=レプリカントの戦いのように見えて、そしてわたしはいったい誰?とゆう問いかけをしているように見せて、最終的には誰でもない、おれもあいつも皆アンドロイドではないか、と徹底的な不条理をつきつけられるオチ(と、わたしは解釈している)がたまらない。どうたまらないのかといえば、身悶えするほどすきでたまらないのだ。だって、この世界こそがまさにいまわたしたちが生きてる世界そのものだから。
わたしは常に、カメレオンマンであろうとおもっているわけです。
つまりわたしはいったい何者ぞ、とかわたしの存在意義って、といったような問いにあまり興味はないのです。常常、わたしは蓋のないガラス壜のようなものでありたいとおもっているので。何色とか言うのではなく、すこしゆがんで向こう側が透けて見えるくらいでいいと、おもっているのです。
だから、わたしは個性のアイデンティティの、とゆう言葉を鬱陶しいとかんじるのです。
そんなものがいったい何になる?他者と自分の小さな差異なんてどうでもいいではないか。
この悠久の時の中で、必死になって競い合うことに意味があるのか?
争いをしては振り出しに戻り、延々にぐるぐるぐるぐる回り続けてるだけ。
個性のアイデンティティの云ったって、せいぜい電波程度に操られているんだよ、みんな。
わたしたちは皆、あのレプリカントそのもの。
それでも、わたしが見ている世界は、わたしだけのもの(だからそれを失うことの報復が目潰しなのだ)。
わたしの記憶は、わたしだけのもの(だから最後、ロイ・バッティはデッカードを生かしたのだ)。
わたしが死ぬとき、そのときこそガラス壜は蓋をされて、わたしの記憶と共に永遠に消滅する。
その後は、残された数少ない誰かの記憶のなかで、しばし生かして頂くことになるんだろう。
ロイ・バッティはデッカードの記憶の中で生きるだろう。
そうやって細々と続いていく世界に、ハッピーエンドなんて必要ない。
ただ残念なのは、「2つで充分ですよ!」というあれが、
今回の最新バージョンでも何のことだかわからなかったこと!!!
目玉ふたつあれば充分、テクノロジーなんて必要ない。ってこと?!