『プルートで朝食を』 | アッシェンバッハの彼岸から

『プルートで朝食を』



プルートで朝食を   (2005 英=アイルランド) 




始まって1分、これがどんな物語かもわからないうちに、

あ、この映画好き、と理由もなしにおもったのは久しぶり。

だって、’70年代の北アイルランドの話だってのに、いきなり“シュガーベイビー・ラヴ”で始まるなんて。

おまけに主人公のファッションがめちゃくちゃ可愛い。

そして、どーでもいいけど、わたしは中性的で知的で腰が細くて、そのくせ真面目過ぎなくて、

いつも遠くを見てるような目をした男性がとても好きなのだ(オカマちゃんだけど)。

おなじアイルランドの物語でも『麦の穂をゆらす風』ではシリアスだったキリアン・マーフィが、

素顔はそう麗しくもないアイルランド顔なのに、ここではほんとに綺麗でかわいい。

んだけど、どんな格好してようと現実のむこうのずっと遠くを見てそうな目とか、

言いたいことの10分の1もいわなそうな唇とかがいい。この映画は彼に尽きる。


主人公は、アイルランド生まれで孤児で、おまけに性同一性障害なのだ。

まずもって笑うしかないくらいの逆境のトリプルパンチである。

なんだけど、なにより彼が誰よりも居直ってるのと、

悲惨な話なのにコメディ風でテンポが良いものだから、

ぜんぜん気の毒な物語になってない。そこはきわめてわたし好み。

浮世離れして見える彼は、両親というルーツ(ここでいう冥王星、なのかな)を持たず、

おまけにその精神は肉体と一致していない。

IRAのテロ活動によって大切な者を奪われる現実も経験している。

その根幹に埋め込まれた絶望感は、

’70年代以降ひたすら軽佻浮薄に生きてきた平和ボケ日本人の想像を絶する。


そうだ現代だってこの世の中は、けばけばしいネオン看板の下には絶望が拡がっていて、

ひとびとはそれを知ってか知らずかお手軽な現実逃避に逃げ込んでばかり。

きっと、絶望に慣れてしまって、あるいはその存在に気づかなくなってしまって、

それでどこのうちにも居間の真ん中にテレビが、一家の大黒柱みたいな顔して鎮座してるのだ。

人々はいつから、自分をとりまく数々の不条理について考えることをあきらめ、

ひとまずテレビのスイッチを入れるようになったのだろう?


彼は自分の絶望ときちんと向かい合う賢さをもっている。

とてつもない絶望感のなかで徹底的な無関心を決め込み、

この世に対して居直ることで、悲しみから逃れる術を身につけたのだ。

何度その冷め切った眼差しにぞっとさせられことだろう。

やがて父親に出会うくだりがいい。『パリ・テキサス』のあのシーンを思い出させる。

父と出会い、やがて母が「幻の女」でなく、明るく笑う一人の女性であることを知り、

彼はやっと彼の冥王星をみつけた=自分の内側に暖かい血が通いはじめるのを感じたことだろう。

命は脈々と受け継がれ、つながっている。自分も例外でなく。そして、親友とその子供にも。


全編を彩るグラムロックそのもののような原色とポップな音楽、

人を喰ったようなキトゥンの言動。

これはその後ろに、いのちとゆうものに対する、

普遍的で痛切な思いの込められた寓話なのである。